南原繁と富山県小杉高校

20110404

 富山大学の佐藤幸男理事・副学長から電話をいただいた。富山大学出版会代表理事。2006年に私が同出版会にお伺いした際にもお会いした方である。用件は、富山県の小杉高校で南原繁についての講演を頼まれた、ついては講演の際に、3月2日の朝日新聞に載せた東大出版会創立60周年の全面広告「本を送り出す人 南原繁」を配布したい、とのこと。快く了解した。
 以下は、かつて「南原繁と小杉高校」について書いた拙文。南原繁研究会編『宗教は不必要か 南原繁の信仰と思想』(2008年、EDETIX 発売)に収録されている。(2011年4月4日)


小杉高校訪問記(2006年10月21日)
 大正3年(1914年)に内務省に入省した南原繁は、大正6年(1917年)3月14日、富山県射水郡に郡長として赴任した。県庁のある富山市で県知事に挨拶したのち、列車で郡役所のある高岡に向かった。南原は、その途中「地図にない湖」を見た。
 《小杉駅を通過するとき、地図にはない大きな湖水のごとき一面の水域が拡がっているのに驚いた。出迎えの郡書記の語るところによれば、この辺一帯土地が低く、毎年春秋の二回、河川が氾濫し、かように堪水するのであり、そのために米の収穫も減少し、悪い地方病も流行する、ということであった。/私は赴任途上のこの瞬間、ここに奉仕すべき一つの大きな任務があることを感じた。》(郡にいた頃の回想 その一)
射水郡灌漑排水事業」を進める契機となった車窓の風景であった。
一方、灌漑排水事業による産業振興とならんで、南原は「教育とそれによる人材の養成」を図った。それは、大正8年(1919年)に「射水郡立農業公民学校」の開設としてあらわされた。現在の富山県立小杉高校の前身である。
《私が本郡に在任中、右の事業のほかに、郡民諸君に訴えたところの、いま一つの重要な問題がある。それは、前記の排水とそれによる産業の振興と相並んで、教育とそれによる地方人材の養成であった。私は来任して第二年目、このことに想い到って、普通の中学校でもなく、また単なる農学校とも異なる、新らしい学校を郡に創立することを考えた。場所は、郡の中央、小杉町を適当と考え》(同上)
《小杉町に設立することとなり、その名を「農業公民学校」としたのである》(同上)
《これは、単に名称の問題でなく、学校の目的・使命を表示するものとして、初めからわれわれは重要に考えていたのである。われわれの当初の構想によれば、その目的は在来の中学のごとく、多く上級の学校に進むための階梯としてではなく、卒業後は、むしろ郷にとどまって、実生活に入り、将来その地方の指導的役割をなす人物を養成することにあった。それ故に、郷にいながらも、日本と世界の問題について知識と教養をそなえた人間、同時に、当地方の実情に鑑み、農業と結びついた勤労を尊ぶ公民、農業的公民を要請することであった。》(同上)
この郡長としての二つの事業を行う南原のフィロソフィーはどのようなものであったのか。南原自身が述べている。
《このことが計画されたのは、あたかも第一次世界大戦が休戦となった秋(とき)である。わが国は、明治維新以来、近代国家としての日本を形づくるに忙しく、そのために西洋文明を摂り入れ、何よりも自分自身を武装したのであった。それによって、日清・日露の両戦役に勝利を獲得し、押しも押されぬ東洋の選手となり、さらに第一次世界大戦に参加して、世界のいわゆる五大強国の一つにまで押し上げられるに至った。これより重要なことは、日本は真に自分自身を固めることである。そのためには武力をもって外に拡張することを止め、内に国民大衆の福祉を図るとともに、何よりも欠けている国民の精神文化を高めることでなければならぬと思われたのであった。これがためには、日本の津々浦々にまで地方の産業がふるい興され、国民大衆が幸福を享けると同時に、国家の自由な公民として、さらに平和な世界的公民としての教養を身につけることが絶対に必要である。》(同上)
ちなみに、『聞き書南原繁回顧録』によると、「公民」についてこのように語られている。
文部省は《「農業公民学校」という名前がいかんという、これは日本中どこにもない、だから許さんというのです。単に「農業学校」ならばよいが、「公民」がいかんというのですね。・・・私も側面から援助してようやく文部省当局の了解を得、日本に唯一の「農業公民学校」として認可されたのです。》
そして、丸山真男の質問――
《「公民」という名称に固執されたのは、当時なにかとくに先生を刺激するものがあったのですか。ちょうど臨時教育会議のころ、公民科というのが各中学校にできましたね。大正デモクラシーの影響と、いわゆる臣民教育、つまり国民道徳との妥協の産物としてですが・・・》
に対して、「公民科」が旧制中学校にできるより先に南原案があったことを確認したうえで、「公民」についてこのように南原はいう――
《私のつもりとしては「市民」なんだが、市民というと都市、語感として市だけになるように感ずるものだから「公民」としたのです。これは私の訳としては「シチズン」ですよ。そういう意味の、市とか町村とかを離れた人間としての教養を持った一個の市民。農業をやり、農村におって、その人たちが、ちゃんと役場の吏員になり、農業組合の役員なりをつとめて、郷土を立派につくってゆく、そういう人を作る学校というのが理想でした。》

2006年10月21日(土)、今年の1月16日に新設された富山大学出版会の学習会で話をして一泊した私は、小杉高校を訪問したいと考え、JR西日本富山駅発9時23分の電車に乗った。前日夕方の土砂降りの雨はあがっていたが、秋曇りの空であった。神通川を渡り呉羽山を抜けると射水市に入る。2005年11月1日に1市4町村が合併してできたばかりであり、中心は新湊と小杉である。富山駅から二駅目が小杉駅である。
駅頭に立ち、「地図にない湖」を幻視しようとしたが、それは無論望むべくもない。鉄道線路と平行して走る国道8号(昔の北国街道と思われる)を高岡の方向、西に歩く。途中は、排水路がよく整備されているように思われた。10分ほどで小杉高校正門前に立つ。「小杉高校前」というバス停があり、次の停留所は「新開発」であるとしるされている。その地名に南原が発案した灌漑排水事業を連想したが、果たしてどうであろうか。
事前に電話を入れた際に、土曜日で担当の先生はいないということだったが、南原ゆかりのものをみせていただければありがたいとお願いしたところ、松永勉事務部長に快く承知していただいた。
若木の公孫樹が黄葉し始める道を正門から歩いていくと正面玄関に着く。その手前右側には、地上の高さ80センチ幅70センチほどの大きな石が松の木とともにある。「創造」――南原の揮毫である。
10時からのPTA講演会を直前に控えての私の訪問は、迷惑なものであったに違いないが、松永氏からは、高校の敷地を含む一帯が灌漑排水事業の対象地域であったと教示していただき、さらに校舎内の南原の書の額に案内していただいた。校長室には「真理立国」の額が、創立50周年記念講演の南原の写真とともに飾られている。その写真には「創校の父 南原繁氏」と説明されている。(そうだ、南原は東大出版会にとって「創会の父」だと思った。)
玄関入り口正面には、自書の南原の歌が掲げられている。
一粒の種子 地に落ちて五十年 育ち栄ゆる 小杉高校》
南原の思いがこめられていることがよく伝わってくるものだ。
ひとりで校内を散策し、そして事務の方と思われる女性に挨拶して失礼する。朝方の曇り空が晴れて白雲の浮かぶ青空の下、グランドでは運動クラブの生徒たちが喚声を上げながら練習に励んでいた。
一粒の種子・・・

参考文献
・ 『聞き書 南原繁回顧録丸山真男福田歓一編(東京大学出版会、1989年9月)。
・ 「郡にいた頃の回想 その一:小杉高校同窓会三十周年記念式に際して」(1953年3月22日)『南原繁著作集第8巻』収録。
・ 「郡にいた頃の回想 その二:排水事業三十周年記念に寄せて」(『富山県土地改良事業着工三十周年記念事業誌』1953年3月31日発行)『南原繁著作集第8巻』収録。
・ 「創立四十周年:小杉高校創立四十周年記念」(1961年11月21日、小杉高校での講演)『わが歩みし道 南原繁』収録。
・ 「世界はどこへ行く:創校五十年に寄す」(1969年10月25日、小杉高校での講演、『創校五十周年記念誌』)『わが歩みし道 南原繁』収録。

・吉田実「射水郡長・南原繁」『南原繁著作集第8巻』月報。
・白井芳樹「射水郡南原繁の仕事に学ぶ」南原繁研究会編『南原繁と現代』(to be 出版、2005年3月)。


謝辞 右の拙文の脱稿後、白井芳樹氏より『とやま土木物語』(富山新聞社、2002年)の恵贈を賜った。そのなかの「第1部 明治の治水」の「一粒の種子 射水郡乾田化(上) 郡長として学校開設提唱」と「百年の大策 射水郡乾田化(下)大湿地地帯の乾田化の世論喚起」、および「番外篇」の「一枚の写真から 近代日本の知性の出会い」において、南原の事績を扱っている。あわせて参照されたい。