サンクトペテルブルクの福沢諭吉:吉野作造『露国帰還の漂民幸太夫』の口絵
20140220
福沢諭吉と吉野作造:吉野作造著『主張と閑談第二集 露国帰還の漂流民 幸太夫』を通して
ヤフオクで落札した、吉野作造著『主張と閑談第二集 露国帰還の漂流民 幸太夫』(福永書店、大正13年9月20日発行、定価1円50銭)が届いた。四六判変型並製。90年前の本だ。表紙が外れかかっている際どい状態の本。ただ、本の後半はペーパーナイフが入っていない頁があり、本書がアンカットだったことが分かる。
開いて見てアッと思ったのは、冒頭の口絵が青年福沢諭吉。1865年「唐人往来」を書いた頃の福沢の立ち姿であり、福沢が七代桂川甫周に贈ったという。七代の孫の今泉源吉秘蔵を模写したもの。ここに、甫周‐諭吉‐作造というラインを引くことができる。
福沢諭吉が口絵を飾るのは、『露国帰還の漂流民 幸太夫』が、大黒屋幸太夫のロシア往還の記録を扱うだけでなく、「維新前後の国際協調主義者」の論考で福沢の『唐人往来』を取り上げているからであろう。それにしても一冊の著書の口絵の載せるとは、吉野の福沢への敬愛を表すものとみるが、いかがだろうか。
なお、吉野が幸太夫のロシア往還について記した際に依拠した主なものは、将軍家斉や老中松平定信に謁見した際を四代桂川甫周が記録した『漂民御覧之記』である。これはとは別に、他の資料を補いながらまとめたのが『北槎聞略』(現在、岩波文庫)であり、これが活字となるのは吉野没後の1937年、印刷所三秀舎の嶋連太郎によってである。
この活字化にも一つの物語があるが、それは別の機会としよう。
追記:
福沢諭吉協会の松崎欣一常務理事より「唐人往来」は福沢の文明論の原点にある著作だ、とお聞きした。確かに、そうかもしれない。
七代桂川甫周の娘である今泉みねには聞き書き『名ごりの夢:蘭医桂川家に生まれて』(平凡社東洋文庫)があり、みねの息子源吉がまとめたもの。この中に福沢諭吉が登場してくるというが、未見。源吉は、法律家でクリスチャン。信濃町教会を興した高倉徳太郎の協力者。
20140223
サンクトペテルブルクの福沢諭吉:吉野作造『露国帰還の漂民幸太夫』の口絵
吉野作造著『主張と閑談第二集 露国帰還の漂流民 幸太夫』(福永書店、大正13年9月20日発行)冒頭の口絵は青年福沢諭吉の立ち姿である。1865年『唐人往来』を書いた頃、福沢が七代桂川甫周に贈ったものが孫の今泉源吉に伝わり、その秘蔵を模写したと説明されている。
その模写のもとになったものを探していたら、灯台もと暗し、『福沢諭吉事典』811頁に見つかった。1862年、ロシアのサンクトペテルブルグで撮影された、とある。Rbilardの撮影。現在は早稲田大学図書館の所蔵。
なお、 七代桂川甫周の娘である今泉みねには聞き書き『名ごりの夢:蘭医桂川家に生まれて』(平凡社東洋文庫)があり、みねの息子源吉がまとめたもの。この中に福沢諭吉が登場してくる。源吉は、法律家でクリスチャン。著書に『蘭学の家桂川の人々』。植村正久を継いだ高倉徳太郎の協力者。