吉野作造と柏木義円と斎藤勇:水原虐殺事件

20110415

 
斎藤勇が「或る殺戮事件」を書く契機となった堤岩里事件について、吉野作造も「朝鮮統治の改革に関する最少限度の要求」と題する講演において言及している。これは、1919年6月25日に開かれた第6回黎明講演会で行われたものであり、『黎明講演集』第六輯(1919年8月)に掲載されている。
 吉野作造は、堤岩里事件について「水原虐殺事件」と題して『中央公論』1919年7月号の「小題小言七則」(「時論」欄)という短文で言及している。《外字新聞の猛烈な攻撃に依つて初めて我々に知らされた水原に於ける驚くべき虐殺事件は、過般憲政会有志の首相訪問の際の会談に於ても政府自ら認むる所の事実なる事が明かとなつた。》(『吉野作造選集』第9巻67−68頁)。
 そしてさらに、三一運動全体のなかで位置づけたのが、上記「朝鮮統治の改革に関する最少限度の要求」においてである。長文。
 《西洋人の指摘に依つて新聞に表れて居る事で、最近最も問題となつて居るのは、彼の水原事件であります。水原に於て朝鮮の数十名の良民を或る会堂に集めて、それを皆焼き殺してしまつた。又自分の亭主が何うなつたらうと思つて、安否を尋ねに往つた婦人をも鉄砲で撃ち殺したといふ事件です。・・・爾ういふ風に今度の事件には、日本人も随分野蛮性を発揮して居るのでありまして、其点が外国人などの指摘する所となつて、どうも問題とせない訳にはいかないやうになつて居る。けれども初は斯ういふ事実が公表が無かつたのでありますから、吾々は知らなかつた。・・・どうも吾々は日本国民の良心の為に、此等の点を実は、黙視することが出来ない。矢張一の人道問題とするの価値は有ると思ふ。》(『選集』第9巻71−72頁)
 また、松尾尊ヨシ『民本主義帝国主義』収録の「三一運動と日本プロテスタント」によれば、日本組合基督教会で湯浅治郎とともに吉野の盟友というべき安中教会の柏木義円も水原事件を批難している。彼は、日本基督教会の機関紙『福音新報』5月1日号に水原事件の真相を最も早く報じたものと推測される、ソウル在住の秋月到牧師の報告に触発され、『上毛教界月報』の5月号から8月号まで毎号論難の筆をふるった。そして柏木義円は、『上毛教界月報』6月号では、『福音新報』紙上の斎藤勇の詩「或る殺戮事件」を全文紹介したあと、水原事件について次のように述べている。
 《実に日本歴史に拭ふべからざる汚点をとゞめたのである。所謂志士は往々屈辱外交など云つて騒ぐが、此の土耳古の流亜たる蛮行は遥かに大なる国恥ではないか。朝鮮は日本国で其人民は同胞だと云ひ乍ら何故に日本の政治家は之が為に義憤を発揮しないのであるか。何故に日本の新聞は唖の如くであるか、国悪を諱むとか云ふ旧思想に囚はれて居るのであるか》(277頁)
 柏木の文章には、斎藤勇の「或る殺戮事件」の語彙が反映されている。
 
 以上に紹介した、斎藤、柏木、吉野の三人に共通して、日本官憲の野蛮性を糾弾し、日本の政治家と政界および言論人と言論界のあり方を問うている。最も重要なことに対して直視しない政治家と、沈黙して報道しないジャーナリズム。政界と言論界の宿痾。
 
 なお、三一運動についてはたくさんの研究があり、私は十分に追っているものではない。吉野作造と朝鮮については、松尾尊ヨシのほかにも多くの研究がなされている。最新のものをひとつだけあげると、中村敏「吉野作造と朝鮮問題:日韓併合から三・一独立運動までを中心として」が吉野作造記念館『吉野作造研究』第7号(2010年11月)に掲載されている。この論文は、第2回吉野作造研究賞「優秀受賞論文」である。同記念館に申し込めば、入手できる。