震災後の吉野作造:自宅放火される

20110406

 

吉野作造の三女・光子は2006年2月に亡くなっている。100歳。その遺族が同年8月に吉野作造記念館に寄贈したもののひとつに、吉野が晩年住んでいた東京駒込の家に掲げられていた自筆の表札がある。自分の名前と住所を記しているという。この表札は、大正15年1926年に放火されたときに焦げた跡が一部見られる。
田澤晴子が著した評伝『吉野作造』(ミネルヴァ書房、2006年)には、この放火事件は出てこない。年譜の1926年のところに、「5・9 自宅放火される。」とある。松尾尊ヨシ編集の『近代日本の思想 吉野作造』(筑摩書房、1972年)および『吉野作造選集別巻』掲載の年譜には、「自宅放火される。右翼のしわざか。」とある。
関東大震災の翌年大正13年1924年11月の吉野の文章「悪者扱さるゝ私」には、つぎのような悪評があると書いている。
《若し夫れ為にする所ある者より蒙らさるゝ悪声に至りては、不快を催すと云ふを通り越して寧ろ滑稽なのが多い。何とかいふ陸軍少将はよく田舎を講演し廻って、私が露西亜より金を貰て居ると公言するとやら。又先輩の某博士は確なる筋よりの内報として、私が亜米利加から金の供給を受け陰に各方面の社会運動を助成して居ると、去る人に告げたのを聞いたこともある。某省の公文の一つに、私が屢々某国公使と会見し我国政界の内情を通報して居るとかいふ一項のあったことも知って居る。一部の人間には私を謀反人の大将のやうに思って居る向もある相だが、悪評も此処まで来ると腹が立たなくなる。》
そして憲兵の機関誌『軍事警察雑誌』を引いたうえで、《斯程までに悪者にされて居るのだから、私立大学に嫌がるゝ位は当然の話だ。寧ろ今日怪我もせずに無事で活きてゐる丈を僥倖とすべきだあらう。》と結んでいるが、1年半後に右翼と思われる者に放火されているのである。しかし、その後も筆を曲げたようにはまったく思われない。明治文化研究や『明治文化全集』の刊行に力を注ぎつつも、政治評論・政治学研究を発表している。1926年1月『現代政治講話』、27年3月『古い政治の新しい観方』と『無産政党の辿るべき道』、12月「我国近代史に於ける政治意識の発生」(『小野塚喜平次在職二十五周年記念論文集 政治学研究』所収)、29年8月『日本無産政党論』、12月『近代政治の根本問題』、30年2月『現代憲政の運用』、4月『現代政局の展望』、11月『家庭科学体系 政治講話』、12月『対支問題』と果敢な言論の戦いが続けられる。
そして、1931年9月の満州事変、32年の5・15事件について批判し、社会民衆党と労農大衆党の合同を進め、32年7月24日反ファッショの単一無産政党社会大衆党が創設される。翌33年1月11日吉野は自ら賛育会病院に入院する。小坪のサナトリウムで亡くなったのは3月18日であった。享年55歳。暗殺されることもなく床で寿命を終えたのは僥倖とすべきか。