新渡戸稲造『武士道』日本語版の刊行

20110512

 新渡戸稲造『武士道』は英文版がもとであるが、その英文版について、著者本人は、「日本では誰もこの本を読みたいとは思わぬ、出版など考えもしないだろう」と考え、日本での英語版出版も、また日本語訳出版も考えなかった。日本語訳版出版を考えたのは、英語初版が好評なのと、日本での翻刻英語版が9刷も重ねたこと、とによると思われる。
 英語版は増補改訂を施し、1905年にあたらしく G. P. Putnam’s Sons, New York および 丁未出版社から刊行された。邦訳版は同じく丁未出版社から桜井鴎村(彦一郎)の訳により1908年(明治41年)に刊行されている。
 この1908年版には1938年岩波文庫矢内原版で「第一版序」として収録されている「原序」のほかに、「上英文武士道論書」というタイトルの著者序文がついている。日付が「明治三十八年四月」。これが興味深い。
冒頭は「伏して惟るに、/皇祖基を肇め、/列聖緒を継ぎ、浩業四表に光り、皇沢蒼生に遍く、声教の施す所、徳化の及ぶ所、武士道茲に興り、・・・」という独特のリズムをもった文章で始まる。(スラッシュは原文改行で、二行目三行目は他の行より一字突出している。これは独特の作法に基づいたもの。)
そして、文末には「誠惶頓首」が置かれ、「京都帝国大学法科大学教授従五位勲六等農学博士 新渡戸稲造再拝白」とある。これも作法に基づいた独特のスタイルと思われる。
 この「上英文武士道論書」の内容にあって矢内原版にはないのは、明治9年に「聖上東北を巡狩し、三本木駅に於て、畏くも稲造の居宅を仮行在所に充て給ひ、爾時祖父の追賞を蒙り、子孫国事に奉ずべしとの聖諭を拝せり。」云々という、新渡戸伝ではよく知られた部分である。
 この1908年桜井版には、「訳序」も付いていて、桜井は新渡戸が『武士道』(英文)を脱稿する際に、新渡戸のフィラデルフィアの仮寓に泊して大旨を聞き、後、日本で『英学新報』を創刊して、新渡戸の示教説明に基づいた詳註を付したこと、そして1905年増補改訂版(英文)を日本で公刊するに当たり、桜井自らが発行者となった、書いている。
 この邦訳にあたっては「訳文は悉く博士の校閲を経たり」とあるので、本文もまた「上英文武士道論書」も新渡戸が目を通したと考えるべきだろう。
 なお、奥付表記は、「明治四十一年三月二十日印刷/明治四十一年三月二十五日発行」とあり、また「訳者 桜井彦一郎/発行者 土屋泰次郎」で発行所が「丁未出版社」。印刷所が「牛込区市ヶ谷加賀町」の「秀英舎第一工場」とあるから現在の大日本印刷である。

 

20110513

 1938年刊行の岩波文庫『武士道』は矢内原忠雄の訳。
 1937年12月に矢内原は東京帝国大学教授を辞任。38年に岩波書店から岩波文庫新渡戸稲造『武士道』と、岩波新書第1・2番のクリスティ『奉天三十年』上下との、この2点の翻訳刊行を行っている。前者が1938年7月の訳者序の日付で10月の刊、後者が9月6日の訳者序の日付で11月の刊。立て続けの翻訳作業、出版作業であったことがわかる。
 これらの翻訳と刊行に関わる矢内原に関連する事柄については、実は極めて興味深いものがあるが、ここでは触れない。『武士道』刊行についてのみ記す。
 1905年桜井訳『武士道』は、新渡戸の校閲を経たものであり、またリズム感のある文体で、矢内原も言うように「桜井氏の訳はなかなかの名訳である。」しかしながら、新たに矢内原が翻訳に取り掛かったのは(岩波茂雄による慫慂があったのかどうかは記されていないが)次のような判断による。
 《[桜井]氏の訳書がすでにしばらく絶版であって容易に発見せられないことのほかに、氏の訳筆が漢文漢字の素養の一層乏しくなれる現代日本人にとりて難解であることを恐れるのと、内容上の瑕瑾もまた絶無とは言えざるが故である。》
 桜井訳が1908年、その30年後、つまり一世代を経て、「漢文漢字の素養の一層乏しくなれる現代日本人にとりて難解」となったと判断されている。しかして、矢内原訳の改版がなされたのが1974年。「改版にあたって」を書いた矢内原伊作は「この機会に現代口語体に改めて今日の読者に読みやすいようにすることも考えたが・・・」それはせず、表記の現代化にとどめたことを断っている。矢内原訳が1938年、その36年後、つまり一世代を経て、現代口語体にして今日の読者に読みやすくすることが検討されたのである。
 1974年改版から37年後、つまり一世代を経た今日、この矢内原『武士道』の文体は若い人にとってはどうなのだろうか。
(『武士道』日本語版は、戦後、複数出版されている。)