新渡戸稲造のBUSHIDO 刊行をめぐって

20110430

新渡戸稲造BUSHIDOは、1900年、フィラデルフィアの The Leeds and Biddle Company から刊行された。この英文が執筆される経緯は、たくさんある日本語訳版の解説でも触れられているので、ここでは繰り返さない。
フィラデルフィアでの出版と同時に日本では、同年に東京の裳華房から英語翻刻版が刊行された。裳華房から刊行されたのは、新渡戸の博士論文をもととした『農業本論』が1898年に裳華房から出版されているつながりによると思われる。
ところが、裳華房からのBUSHIDO刊行をめぐっては、その後、版権、印税についてトラブルが生じたようである。出版に携わる者として、何があったのか、関心がある。そのことの資料を次回に紹介する前に、裳華房のホームページから新渡戸BUSHIDOに関する該当箇所を下に引用する。

http://www.shokabo.co.jp/corporation/busi.gif
BUSHIDO(武士道) The Soul of Japan』
新渡戸稲造 著 明治33年(1900)
本の大きさ:菊半裁
 明治日本が輩出した真の国際人、新渡戸稲造の精神的真骨頂を著した主著の一つ。
 1899年に米国で出版されたものの翻刻版。武士道を、日本の道徳形成の基本とする良き精神的伝統を西洋に紹介。
 この版で15,000部が売れたとされる。
 著者は、札幌農学校を卒業(明治14年(1881))後、米国J.ホプキンズ大学に留学、さらにドイツにも遊学し、札幌農学校教授、国際連盟書記局次長にもなった。
 本書のほかに、裳華房から『農業本論』(明治31年(1898))を出版している。これは新渡戸稲造本来の研究テーマである農業政策について国際的視野に立って論じたもので、彼の初の本格的論文であり、博士論文ともなった名著である。

 

20110501

 新渡戸稲造に『幼き日の思い出』(邦語は加藤武子訳、新渡戸基金、2007年1月1日、1905円、和英併記)がある。
 この著者生前は未発表の英文原稿を、没した翌年の1934年に丸善から出版されるにあたり、メリー・ニトベが寄せた「はしがき」がある。ここに英文 BUSHIDO の日本での翻刻版出版のトラブルについて、以下のような記載がある。

 《[『武士道』は]夫の健康上医師に強制された休暇の間、アメリカで書かれたものです。この本は、一九〇〇年にアメリカで最初に出版されました。私は新渡戸に、ぜひとも日本で同時に版権をとるように求めましたが、彼はその必要はないし、日本では誰もこの本を読みたいとは思わぬ、出版など考えもしないだろう、と思っていました。》
 この1900年という時点では、アメリカで出版したものが日本でその版権が保護されることにはなっていなかったのだろうと思われる。(不平等条約撤廃で改善されたかどうか、また、著作権条約について、要調査。)

 《ところが、結果は、彼[新渡戸]が一、二年後に帰国しますと、『武士道―日本の魂』が、すでに九版を重ね、学校の教科書にも使われていたことがわかりました。彼は二度東京の出版社に抗議にまいりましたが、二度とも、どのような処置をなさったかと私が訊ねましても、答えるのも厭う様子の帰宅でした。》
 この「東京の出版社」が「裳華房」である。同社は英文版のみならず、1901年にドイツ語版も出している。
 なお裳華房は、1898年に刊行された新渡戸の『農業本論』の版元である。『農業本論』は奥付に「札幌農学校学芸会蔵版」とあり、札幌農学校の「札幌叢書」の第1冊として刊行されたもののようだ。同書奥付裏広告には、続刊として20冊の書名が挙がっており、その中には新渡戸『農業発達史』(結局、未刊)、宮部金吾『植物学大原論』(これも未刊か)が見える。

 《私どもは出版社がその本から得た収益を自慢していることを知っておりました。ところが彼は著者[新渡戸]に向かって、妻の病の話を痛々しく訴えました。さて著者は、妻が病気だということが、いかに大変なことか知っておりましたので、気の毒に思いました。そのような次第で、彼[新渡戸]はこの手に負えぬ出版社の主人を厳しく処するに忍びませんでした。同情をもって遇せられた出版社の主人は、さらに厚かましくなり、新渡戸の印を実際に偽造してしまいました。その時、いわば、こらえにこらえた武士の刀が鞘走りました。》
 この「武士の刀の鞘走り」について、訳註で《小石川原町居住時代、出版社主人が玄関に現われるや、「恥を知れ!」と大声一喝、出版社主人はふるえ上がりし由。》とある。訳者は新渡戸の孫であり、このようなことを聞いていたのだろう。また、出版社主人が1898年時点と同じとすれば、芳野兵作であろう。

 岩波文庫版『武士道』の矢内原忠雄「訳者序」によれば、BUSHIDO は、1905年第10版に際し増訂が施され、「アメリカ(G. P. Putnam’s Sons, New York)および日本(丁未出版社)にて発行された。」国会図書館で検索すると、1905年に東京の Student Co. から Rev. & enl. ed. が刊行されている。これが丁未出版社にあたるのだろうか。
 結局、BUSHIDOを1万5千部を刊行したという裳華房からはその後新渡戸は新しい本を出していない。メリーによれば、《法的処置は取られませんでしたが、この出版社は、失った信用を二度と取り戻しませんでした。》と書いている。
[版権や印税のトラブルはよく起きることであり、以上のことは新渡戸側からのものであり、出版社側からの言い分については不詳である。ご存知の方にご教示いただければ、幸いである。]

 

20110503

『新渡戸博士追憶集』は、1933年新渡戸稲造没後の記念事業の一つとして、内外から七十有余の追億文を得て、1936年11月25日に非売品として発行されたものである。編集責任者は、前田多門(当時、朝日新聞社論説委員。戦後、文部大臣)と高木八尺(当時、東京帝国大学法学部教授、ヘボン講座)の二人。この本はのち、1984年に『新渡戸稲造全集』別巻に、解説などを新たに付して収録されている。
この『追憶集』に、新渡戸の出版をめぐるトラブルのエピソードが記載されている一文がある。田島道治「原町時代」である。田島は、自分でもそう書いているが新渡戸家の「書生」として住み込んだ人である。

 《原町時代に今一つ思い出す事は、著書の出版に関して正しからぬ事があった為に、先生が某書肆を大喝されたことが、当時先生夫妻が預って居られた島津三公子の間で話柄になっていたことである。殆んど怒られたことのない先生が大声叱咤されたので話題となったのである。》(197頁)

 このエピソードは、第2回に引いたメリー夫人の言葉と照らし合わせると、BUSHIDO英語翻刻版出版と関わることと推測して間違いないと思う。

 なお、田島道治は1885−1968.一高、東大卒。『追憶集』の一文の肩書きは「昭和銀行頭取」。新渡戸および内村鑑三門下、無教会キリスト者。新渡戸没後、「故新渡戸博士記念事業執行委員会」を結成し、代表となっている。したがって『追憶集』の奥付の発行人は田島道治である。1948年6月、田島は芦田首相により宮内府長官を任ぜられ、三谷隆信侍従長とのクリスチャンコンビが成立した。