「大和魂」ということ――萩「至誠館」で考えたこと

 

大和魂」ということ――萩「至誠館」で考えたこと
2017.5.6
 
先の拙文「至誠と公共」において、京都フォーラムの至誠館大学バスツアーで山口県萩市に行った際、実践部会メンバーと共に松陰神社の宝物殿「至誠館」を訪れ、難波征男先生の解説を受けながら、松陰の遺書というべきものをいくつか見て考えたことについて書いておいた。焦点を「至誠」と「公共」とにあてたため、そこで見た吉田松陰の遺書「留魂録」の冒頭に書かれている《身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
という有名な辞世の句には触れなかった。それを補う意味も込めて、ここでは、「至誠」と並ぶ松陰のキーワード「大和魂」について考えてみることにしたい。
 
  この「留魂録」については、30年前に松陰神社を訪ねた時、そのテキストと注および解説を載せた小冊子を購めて持っている筈だが、それが見つからないので、その概要については、ウイキペディアがほぼ正確と思われるので、少し長いが、次に引用する。
 
  《1858年(安政5年)、松陰は藩に対し、幕府の老中であった間部詮勝暗殺計画のために武器の提供を申し入れた。驚いた藩の重臣たちは、松陰を野山獄に投獄し、翌5月、幕府に上申のうえで江戸に向けて松陰の身柄を転送した。
幕府の評定所で、悲劇的なボタンの掛け違えが起こる。上記の経緯により、松陰自身は、当然、幕閣も松陰の計画を承知しており、その嫌疑取調べのために東送されたものと思い込んでいた。しかし事実は異なっていた。幕府が松陰を召喚した目的は、安政の大獄で召喚された梅田雲浜との交友などの嫌疑についての取調べであった。よって、暗殺計画には一切触れることなく、松陰の評定所での詮議は終了し、長州藩邸に戻ることを許されようとしていたのである。
しかし、自身が萩の野山獄に投獄された経緯から、松陰は、老中暗殺計画を自ら自白するという挙に出たため、一転して嫌疑は重罪に変わり、小伝馬町に投獄される。その後の取調べで、自身の処刑を察知した松陰が、10月25日から26日にかけて書き上げたのが、本書である。》
 
処刑される10月27日の前々日および前日に書き上げられたものである。
では、獄中で書かれた「留魂録」が、今日、松陰神社宝物殿「至誠館」に伝えられているのにはどのような経緯があったのだろうか。それについても、ウイキペディアが簡潔に示しているので、引用する。
《獄中の囚人である松陰が門弟たちに宛てた書物であるため、何とか塾生たちに伝わるようにと、松陰は直筆の書を2通作成している。1通は、松陰の処刑後、門弟の飯田正伯の手に伝わり、萩の高杉晋作らの主だった塾生に宛てて送られた。こちらの本は、門弟たちの手によって書写され、今日に伝わるものもあるが、正本自体は行方不明となっている。
今日、萩の松陰神社に伝わる本書は、もう1通の方の正本である。これは松陰と牢中で起居をともにした沼崎吉五郎が持していたものである。沼崎は、小伝馬町の牢から三宅島に遠島となり褌(ふんどし)の中に隠したまま携え、そこで維新を迎える。1874年(明治7年)に沼崎は東京に戻り、その後、1876年(明治9年)に、沼崎は松陰門下ゆかりの人物で、神奈川県権令となっていた野村靖を訪れた。そこで、初めて別本の存在が明らかになったのである。》
 
このように松陰は自筆の「留魂録」を二部作成していたのであり、同囚の沼崎吉五郎が、三宅島に流刑される期間も含めて十数年間、大事に持っていたものが、至誠館に伝えられたのである。
なお、「留魂録」というタイトルは、本書冒頭の辞世の句「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」から取られたものと思われる。
 
 
 


 
 
 
  「留魂録」以外にも、「大和魂」という言葉を使った松陰の歌に、次がある。
 
《かくすれはかくなるものと知ながら已ムニ已マれぬ大和魂
 
これも人口に膾炙した歌である。これは、松陰が1854年の再航時のペリー艦隊に密航しようとして失敗、下田の幕府役所に自首して囚われ、江戸に囚人として送られる時、泉岳寺の前で詠んだもので、12月8日付けの兄 梅杉太郎宛て書簡で「下田獄中の歌」として記載されている。下に掲げる写真の7行目から9行目にある。
 

ネットより転載
 
  松陰が他で「大和魂」という言葉を使用しているかどうか不分明だが、この二つの歌を見ただけでも、国史大事典でいう「命をも惜しまない勇敢な精神」(日野龍夫) という意味で使われていることは分かるだろう。
 
 しかし、吉田松陰の使った「大和魂」は、幕末維新を経て天皇制国家のもとで、さらに変わっていく。それは、
 
《幕末から明治にかけて、国粋主義が激しく高揚すると、「やまとだましい」は、……民族性をいさぎよく勇敢なものとして誇示する役割を果たした。やがて天皇制国家のもとで、この語は、天皇の赤子の持つべき心構えとして喧伝されるようになった》(日野龍夫
 
のである。例えば、日本を代表する山形県出身の歌人であり、万葉調を高唱した斎藤茂吉が太平洋戦争中に作った次の歌は、「天皇の赤子の持つべき心構え」としての大和魂を詠んだものである。
 
《ひとつなるやまとだましひ深深(ふかぶか)と対潜水網をくぐりて行けり》
 
今日、何のわだかまりもなくこの言葉を使うことにためらいを感じるのは、この天皇制国家下での語感が人々の間で残っているからであろうし、逆に、憲法改正を目指す日本会議が「70年の永い眠りから大和魂を目覚めさせる」ことを目指し、アパホテルグループが「大和魂の黎明!目覚めよ日本!」というスローガンを打ち出しすのは、この天皇制国家下の「大和魂」を引き継いでいることによる。
 
しかしながら、日本語の歴史をひもどく時、文献上「大和魂(やまとだましい)」が最初に使われたのが、あの源氏物語であることが示すように、「命をも惜しまない勇敢な精神」とは異なる意味を持っていた。このことについては多くの研究がある。私は特に、古典から現代に至る詩心を考察した優れた文芸評論家の山本健吉の『いのちとかたち 日本美の源を探る』(新潮社 1981) の綿密な考察によって「大和魂」の意味することを学んだ。
  その初出の源氏物語であるが、山本の考察は詳細を極めているので、簡単に要約することは難しい。そこで、ここでは日本百科事典による斎藤昭二の記述を引用する。
 
  《文献のうえで〈やまとだましい〉が登場するのは《源氏物語》乙女の巻で,光源氏は,12歳になった長男の夕霧に元服の式をあげさせ,周囲の反対を押し切って大学へ入れる。その際,〈才(ざえ)を本(もと)としてこそ,大和魂(やまとだましい)の世に用ひらるゝ方(かた)も,強う侍らめ〉と述べている。ここでは(1)大和魂は才(漢学の素養,漢才(からざえ))と反対の概念をなしていること,(2)本(もと)が才であり,したがって,末に位置するものが大和魂であること,(3)大和魂の属性として〈世に用ひらるゝ方〉すなわち処世的手腕・功利主義的判断能力が考えられていたこと,この三つの特性が認められる。従来の源氏注釈家たちは,〈大和魂〉について,世才,良識,先天的にそなわった気ばたらき,融通のきく常識的政治判断,世渡りの才能,交際上手,如才なさ,実人生に対する理解力,などの解釈を与えている。》
 
  このように、「才(ざえ)」「漢才(からざえ)」に対する概念として「大和魂(やまとだましい)」が使われていることがわかる。源氏物語以外では「やまとごころ」という言葉も、同様の意味で使われている。
山本は、これらの解釈を踏まえつつ、その解釈でとどまることなくさらに考察している。そして、津田左右吉『文学に現れたる我が国民思想の研究』における卓抜な攻究も参照しながら、「大和魂」の古意は、結論だけを言えば、古代世界の天皇から光源氏、そして天皇の役割の代行者である摂政関白にまで伝えられている「ある強烈な霊的威力」であるとする。流行りの言葉で言えば「スピリチュアルなもの」となるかもしれないが、山本が「たましいの威力」とも言っているように、より深い「いのち」に根差した威力である。(山本は、大和魂の背景に「稜威(いつ)」があることを考察しているが、ここではそのことには触れない。)
私は、山本健吉の考察を踏まえ、源氏物語前後の「大和魂」を「学問的知識(才)をもととしつつ、それにとどまらず、いのちに根ざしたたましいの深さをもって組織を経営する大きな人間的器量」と捉えたい。
 
大和魂」については、平安鎌倉時代以降、表立って取り上げられることはなかったと言われるが、江戸期半ばを過ぎて国学者賀茂真淵本居宣長によって取り上げられる。同じく斎藤昭二を引く。
 
賀茂真淵および本居宣長によって改めて〈やまとだましい〉(やまとごころ)が取り上げられるようになる。それは,人間の自然の心情のままにすなおでやさしく,めめしくもある心映えであり,宣長の〈敷島のやまとごころを人問はば朝日ににほふ山桜花〉の歌も,みやびで純一な民族性を詠んだものであった。しかしこの歌はやがて桜花の散るいさぎよさが強調して解釈されるようになる。幕末になって尊王攘夷論が勢力を得ていく過程において,〈やまとだましい〉は,しだいに武断的な国粋思想に利用されはじめ,誤った〈和魂漢才〉説まで創案されるに至るのである。》
 
  斎藤昭二が言うように、幕末になって、源氏物語とも、賀茂真淵本居宣長が使った意味とも異なるものとして使用されたという。この点は山本健吉も同様に指摘している。
山本は、「大和魂」を武断的な国粋思想に意味を転化したのは、平田篤胤門下の国学者神道家の大国隆正であるという。吉田松陰を挙げているのではないことに注目したい。松陰と大国隆正とのあいだに何らかの関係があったのかについては私は分からない。ただし、後世の人々が松陰の使った「大和魂」を受け取る際に大国隆正の与えた意味合いで解釈した可能性は十分にあるだろうとは思う。
 
以上、駆け足で「大和魂」という言葉の歴史を見てきた。もう一度確認するが、源氏物語前後においては「学問的知識(才)をもととしつつ、それにとどまらず、いのちに根ざしたたましいの深さをもって組織を経営する大きな人間的器量」という意味合いで「大和魂(やまとだましい)、やまとごころ」が使われていたのである。
 
桐原健真吉田松陰の思想と行動 幕末日本における自他認識の転回』(東北大学出版会 2009) によれば、松陰は「天下公共の道」「五大州公共の道」に自覚的な人であり、その主著である『講孟余話』において、この言葉を使っている。桐原は、その著作の末尾で次のように述べている。
《松陰は、日本の固有性(「皇国の体」)を主張する一方で、その固有性をたんに日本のみだけではなく、世界万国相互に認め、その相互承認に基づいて、世界における普遍(「五大州公共の道」)が形作られると考えていた》(246-247頁)
 
このことを考えるならば、「公共の道」を幕末日本が歩むべき道として自覚していた松陰が「留魂録」の冒頭に掲げた歌の「大和魂」について、天皇制国家下で猖獗を極めた国粋主義的な意味で使われた方向でのみ捉えるのは、決して正しいものではないだろう。もう一度、源氏物語で使われた本来の意味合いーー学問的知識(才)をもととしつつ、それにとどまらず、いのちに根ざしたたましいの深さをもって組織を経営する大きな人間的器量―ーを意識して捉え返すことが必要ではないか。それが、日本の産業近代化を主導した人々を育てた、稀有の教育者としての吉田松陰を位置づけることにもなるのではないだろうか。
 
自他認識(自己認識と他者認識)の転回(「態変」)を遂げ続けた吉田松陰をどのように捉えるかは、まだまだ解決済みではない。
しかし、以上のように見るならば、吉田松陰は今日の私たちに様々な示唆を与える「至誠の人」であり、また「公共する人間」であり続けることは確かである。(以上)