本庄陸男『石狩川』を読む

20171117記

 

本庄陸男『石狩川』(『北海道文学全集8 開拓の礎』立風書房1990 所収)読了。戊辰戦争で賊軍となった仙台藩支藩 岩出山伊達家は俸禄のほぼ全面的な削減にあい、藩主を先頭に家臣団の一部は新天地を求め北海道に渡り、石狩川沿いの当別開拓という困難な事業に挑む。開拓主事となった元家老を中心に、開拓庁との交渉、厳しい自然との闘い、廃藩置県による藩再興の夢の断念、故地に残留した人々との軋轢などを乗り越えて、一筋の未来が見え始めるまでの怒濤の様を描いた、歴史小説
本庄自身(1905-39)が、佐賀藩士の開拓農民の子として当別に生まれ、北見で育ち、カラフトにも住み、上京して青山師範学校にはいり、教員をしながらプロレタリア作家として小説を書き、教職を追われた人物であり、1930年代後半という同時代の厳しい状況のもと、自らの父祖の思いを馳せて渾身の力を込めてこの作品を描いた。雑誌連載した前半部分を単行本として大観堂から刊行後二カ月にして病没。続編が書かれることはなかった。
戊辰戦争から明治初期の大激動期を生き抜こうとする有為転変のストーリーの迫力のみならず、北海道の土地・植物・気候など自然の描写に優れ、また登場する人物の所作や心理的動きの描写も特徴的である。お勧めしたい。
この伊達家支藩のある岩出山は、私の出身地である池月とは江合川(荒雄川)を隔てた隣町であり、1954年の町村合併で同一行政区となったところであるが、代々農民であった私の先祖からは、この隣町の武士団の苦闘について話しを聞いたことはなかった。伊達家進出の以前からの住人でありその支配を潔しとしない者たちの末裔であったと推測され、その没落にも北海道移住にも関心を寄せなかったからではないかと思う。
ただ、この本庄陸男の『石狩川』の本は幼少年期に見た記憶があり(それが我が家であったか、親戚の家であったか、判然としない)、いつか読んでみたい作品と思っていたが、このたび、北海道に通う用務を担う機会を得て、初見から数十年振りに読むことになったのである。読んで、優れた作品であること、また150年前に隣町の人々に激しい暴風雨を襲ったことに、改めて気付かされた。

私が読んだ本庄陸男『石狩川』が収録されている「北海道文学全集第8巻」の本づくりについて苦言を申す。
これには、出典が記載されておらず、また校訂の方針も示されていない。いかがなものかとと思うが、本文を読んでいて、行間に付された(ママ)に怪訝な気持ちを抱かされた。これは、本書収録にあたっての編集側の配慮と推測されたが、その(ママ)がどのような方針をもって付されたか、分からないことである。
例えば「尨大」の「尨」に(ママ)と付されている。推測であるが、担当者は、当用漢字表制定以降の書き換え漢字である「膨大」ないし「厖大」が正しい表記で、「尨大」は誤りと判断したのであろう。困ったちゃんである。
また「硬ばる」の「硬」に(ママ)と付している。これは「こわばる」と訓めるが、当用漢字音訓表には「硬」の訓読みが「かた」だけであり「こわ」がないために、担当者は(ママ)と付したと推測される。困ったちゃんである。あるいは「強張る」ないし「強ばる」だけが正しい表記と思ったのかもしれない。しかし「硬ばる」は今日でも使われている言葉である。
他の例をあげることもできるが省略。
こんなことに労力を使うよりは、複数箇所に出て来る「戊申戦争」に(ママ)を付けてくれないかなあ。言うまでもなくこれは「戊辰戦争」の誤りである。
石狩川』は当用漢字制定以前の作品である。もちろん、当用漢字表以外の漢字もたくさん出て来る(それどころか、どう読んだらいいか分からない漢字もたくさん出て来る)。そうであるにもかかわらず、制定後の基準でもって判断し(ママ)を付すのは、端的に間違いである。
典拠不明、校訂方針示さずの罪は大きい。版元は、今は亡き立風書房