伊藤整の「石狩」と石狩川捷水路

伊藤整「石狩」を読了。初出は単行本の『石狩」(版画莊文庫、1937年)。伊藤整小樽市郊外の塩谷で育った。小樽までは歩きで1時間半ほどかかる。塩谷海水浴場があり、この小説にも登場する。10代後半の主人公の知り合いの女性二人をめぐる心の葛藤を主として描いたもので、その上で主人公が家出同然にして、幼馴染が売春をしていると思われる石狩村を訪ね、灯台のある砂丘で海をながめながらの心の移ろいを描写する。

興味深いのは、札幌のどこかから馬車鉄道に乗り、治水工事をしている石狩川の船着場から渡し船に乗り、石狩川を渡って石狩村に行く場面で、この治水工事の様子が描かれていることである。おそらく伊藤整自身が目撃したものであろう。それは1918年に始まり1931年に完工した「生振(おやふる)捷水路」である。

この捷水路工事については、たくさんの考察がある。その中で伊藤整の描写は、内面を通して同時代を描いたものとして重要であると思う。

丸山眞男と戦後初期出版界(レジュメ)

丸山眞男と戦後初期出版界
 
竹中英俊 2014.8.22 大学出版部協会夏季研修会
 
はじめに
富山県南原繁南原繁東京大学出版会南原繁丸山眞男
丸山眞男は1914年3月22日、大阪天王寺村に生まれ、今年が生誕百年
*記念行事
 ・3月22日、丸山眞男手帖の会主催の講演会
 ・4月‐7月、岩手県一関市猊鼻渓での記念展(東京大学出版会後援)
 ・6月27日、シンポジウム「現代世界の中で丸山眞男をどう読むか」東京女子大学丸山眞男記念比較思想研究センター主催
・7月24‐25日、ソウルで「丸山眞男生誕100年記念日韓国際学術会議」開催。
・8月24日、「96年の会」主催の生誕100周年記念会(於名古屋)
・10月3日‐12月3日、杉並区立西荻図書館、生誕100周年記念事業(展示と講演)
*記念フェア・出版
 ・四社共同ブックフェア(岩波書店東京大学出版会みすず書房未来社
  ⇒作成されたリーフレットは貴重
 ・岩波書店丸山眞男集』の再刊
 ・みすず書房丸山眞男 続話文集』全3巻、刊行
 ・『現代思想』増刊号(2014年7月)
 ・『丸山眞男手帖 休刊号』2014.8.15
 (NHK ETV『戦後史証言プロジェクト 丸山眞男政治学者たち』2014年7月19日)
 
1.丸山眞男の初期著作と出版社
・『政治の世界』御茶の水書房、1952年3月
・『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952年12月
・『現代政治の思想と行動 上下』未来社、1956年12月、57年3月
・『日本の思想』岩波書店、1961年11月
(・『戦中と戦後の間』みすず書房、1976年)
(・『忠誠と反逆』筑摩書房、1992年)
 
2.戦後の出版界:大学出版部の設立
*戦後初期に創設され今日現存する出版社の数は、1945年25社、46年85社、47年71社、48年112社、49年57社、50年59社。1948年が最多。
*大学出版部の創設をみると、
・1947年に関西大学出版部と慶應通信(後の慶應義塾大学出版会)、(東京帝国大学協同組合出版部)
・48年に中央大学出版部と法政大学出版局、(理事会開催・理事長選出に至りながら消えた東京大学新聞出版会)
・51年東京大学出版部(のち、財団法人申請過程で東京大学出版会と改称)
*戦後5年のベストセラーの特徴:見田宗介週刊読書人』1964.10.26
《われわれの生きてきた、また生きている時代の本当の姿と意味をつかもうとする世界観的な関心と、その中でわれわれ自身がどのように生きていくべきかに関する人生観的な関心との、分かちがたい統一であった。》
例:J. ハーシー『ヒロシマ法政大学出版局、1949年、初版4万部
  日本戦歿学生手記編纂委員会編『きけわだつみのこえ』東大協組出版部、1949年
*1951年の出版界:田所太郎『戦後出版の系譜』65ページ
  《〔追放解除により改造社や新潮社や講談社の元社長が復帰したころ〕戦後派として時めいた新興出版人の大半が、書籍発行でも雑誌発行でも潰滅し去ったあとであった。といって、この返り咲きの旧人が活躍できる余地がのこされているというわけではなかった。ふるい人間は必要なかったが、ふるい暖簾があたらしい人間によって再建されることが必要な時代になっていた。》
 (年間発行点数は1950-51年を底として、以後増えていく)
 
3.丸山眞男東京大学出版会:『日本政治思想史研究』の刊行
*前身の一つである東大協同組合出版部の時代からのつきあい
・1947年4月、東京大学協同組合出版部(設立当初は東京帝国大学協同組合出版部)『学問と現実:新しい社会科学の出発のために』を刊行。大内兵衛の序文のほか、木村健康、岡義武、大塚久雄、川田信一郎、福武直、大河内一男が執筆。
・この協組出版部は1947年年12月に東大戦歿学生の手記『はるかなる山河に』を出版してベストセラー出版社になり、その続編、日本戦歿学生の手記『きけわだつみのこえ』(1949年10月)につながる。『きけわだつみのこえ』の成功を受け、学術出版に舵を切るべく、そのための顧問会を設けた。そのメンバーは、『きけわだつみのこえ』とかかわった渡辺一夫をはじめ、中野好夫中島健蔵、宮原誠一、福武直、そして丸山眞男であった。
・丸山がこの顧問会と密接に関わるようになったのは1950年12月1日に刊行された飯塚浩二『日本の軍隊』の企画を通してであった。丸山はこの『日本の軍隊』の一部を構成する陸軍将校出身の東大学生に対するヒアリング(初出は東大東洋文化研究所の『東洋文化』第3号)に自らも加わるほど熱心だった。
・1951年2月28日に東京大学出版部が発足し、翌3月1日から営業開始。会長が南原繁、全学部長が顧問。代表者有澤廣巳、経理部長佐々木道夫、編集部長中野好夫、業務部長進藤小一郎(東大事務局長)、委員に末延三次、辻清明、福武直。
・『丸山眞男回顧談(下)』の「16 生活問題としての戦後」の項の「住宅事情」の個所。東京女子大学の隣に家を建てようとして、前金に必要なお金を工面するのに苦労していたと語った上で、
 《何かの折に福武直くんにそんな話をしたのでしょうね。彼は、できたばかりの東京大学出版会の理事をしていて、『国家学会雑誌』に載った論文をまとめて出版会から出す約束をしてくれるなら、理事長の有沢広巳に相談してみると言うのです。それで一五万円前借りできた。まだ海のものとも山のものともわからないぼくに、よくぞ貸してくれたと思います。》(140頁)
*以上が、創業したばかりの東京大学出版会が『日本政治思想史研究』の企画を成立させ1952年に刊行を実現できた経緯。
*出版部数は、第1刷3000部。3カ月後の1953年2月に第2刷1000部を作ったが、在庫の山。53年11月毎日出版文化賞を受賞し、54年に第3刷。
*初版の累計が5万3500部、新装版(1983年)の累計が今日までで2万4000部、総計7万7000部。
 
4.丸山眞男東京大学出版会:幻の『政治学論集』
*後に述べる未来社刊の『現代政治の思想と行動』の「後記」
 《本書はもともとは日本のファシズムあるいはナショナリズムの問題を中心として纏められる筈で、それは未来社の西谷能雄氏が社を創立した当時からの約束であつた。・・他方私は、東京大学出版会から「日本政治思想史研究」を刊行した際に、引続いて、政治学関係の論文集を出すことになつていたが、・・その儘になつていた。・・未来社は何か事情があつて私の約束の履行に対する攻勢をにわかに強め出したのである。こういうところから、東京大学出版会に約束したいくつかの論文を、日本ファシズムについての既発表の研究に加えて一本にまとめることになつたわけである。(この点東京大学出版会の好意に深く感謝する)》
東京大学出版会の初期のPR誌『TUP通信』1952年7月号(通算7号)で丸山眞男政治学論集』(仮題)の刊行を予告。
《戦後、その鋭い論調と洞察した意見とをもつて読書界を魅了した、好短篇を網羅し、新たな論文を加えて広く世に贈る。ラスキにおける革命観の推移、科学としての政治学、肉体文学より肉体政治まで、ある自由主義者への手紙、現実主義の陥穽、権力と倫理、人間と政治、等々を収録する。》
当時の担当編集者石井和夫は次のように話している。
《私の記憶するところでは、未来社の西谷能雄さんを丸山先生は「国士」と呼んで、「国士に頼まれたんで、何とか承知してほしい」。「国士」と言うんですよね。青年文化会議などにはそういう若手の気負いがあったのではないでしょうか。先生の強い意向だったので、やむを得ず、『政治学論集』を断念しました。でも、転んでもただでは起きない。先生に、代わりに講義録を下さい、とお願いし、聞き入れていただきました。》
 
5. 丸山眞男未来社
*『ある軌跡:未来社40年の記録』に収録された座談会「未来社の15年:その歴史と課題」(1966年1月26日。出席者:内田義彦、木下順二野間宏丸山眞男、西谷能雄)によれば、弘文堂から独立し未来社を創業した西谷能雄は、1951年11月の創業以前から、丸山と論文集『日本ファシズム研究』を約束していた。
西谷:《丸山さんのね、『現代政治の思想と行動』は、はじめ「日本ファシズム研究」という題で弘文堂の時にお願いしていたものです。未来社をはじめるにあたって、何か是非出発のお祝いにいただきたいということから、僕がやめた弘文堂には義理はないから、未来社で出してやろうといって下さって、予告はわりに早く出たんですよ。》
*二分冊で刊行された『現代政治の思想と行動』(並製カバー装:上巻1956年12月15日、下巻57年3月30日)は、丸山の「後記」にあるように、このファシズムについての論考に政治学に関する論考が加えられている。
*同書は、論文の多少の入れ替えをして一冊の増補版として1964年に刊行。この増補版は159刷を重ね、丸山没後10年の2006年に新装版として刊行。
 
6.丸山眞男岩波書店
丸山眞男超国家主義の論理と心理」は吉野源三郎が編集長の時の『世界』1946年5月号に掲載された。
丸山眞男吉野源三郎をつないだのは、丸山の旧制中学校以来の同級生・塙作楽(はなわ・さくら)。塙は1945年10月に岩波書店に採用され、『世界』創刊に携わる(「同心会」を基盤として1946年1月号創刊)(塙作楽『私の岩波物語』審美社、1990年)
*『丸山眞男回顧談』上(280頁)の回想では、同心会の田中耕太郎が丸山を『世界』に推薦。塙が丸山に吉野を引き合わせる(46年2月)。
*先述の丸山の吉祥寺の新宅建築に関連する吉野源三郎の記録:2014年3月に刊行された『丸山眞男記念比較思想研究センター報告』第9号(東京女子大学発行)に掲載された「吉野源三郎書簡 丸山眞男宛 三六点」。
*丸山の肺結核闘病に気遣う内容の書簡。丸山は1951年年2月から9月まで肺結核で入院。2月13日の吉野書簡(書簡番号〇〇二)。
《・・・御病気の性質上、こゝ一年か一年半は絶対に無理はおできにならないのですから、申すまでもなく、闘病第一の方針で万事御処置いたゞきたく、切に御自愛を祈ります。/それについても、経済的に御心配のないだけの条件を作らねばなりませんから、その点どうぞ遠慮なく御相談下さるやう、その方が御遠慮下さるより何千倍かうれしく思ひます。論文集出版の件なども、決して無理にはお願ひできませんけど、或る見当がつくだけにさへなっていれば、私としてはいろいろやり易いので願ひ出るわけです。・・・》
*丸山の退院後、1951年11月24日の吉野書簡(〇〇五)。
《・・・御申越しの御事情はよくわかりました。今の御病気でこんな心配をなさらなければならないこと、全く残念です。とにかく、御申出の金十五万円は承知いたしました。岩波書店として御用立てすべく用意します。返済についての御配慮も諒承いたしましたが、これについては余り、御心配なさいませんよう。来年のうちに一冊本ができれば解決することと存じます。ついては、いつまでにお届けしたらよろしいのか、御予定を小生までお知らせ下さい。・・・》
*吉野書簡における「論文集」や「一冊の本」が具体的にどんな内容のものか確定できないが、福沢諭吉についても論集、ないし1961年に岩波新書として刊行された『日本の思想』が推測される。
 
7.丸山眞男御茶の水書房
御茶の水書房は1949年の創設。丸山眞男の最初の単行本『政治の世界』を1952年3月に刊行。『丸山眞男集』第5巻の解題によれば、
《『政治の世界』は、当時郵政省人事部訓練課長であった山本博(丸山より数年遅れて同じ南原繁の演習で学んだ。のち郵政事務次官)が、郵政省職員の中に「自由と正義とを何ものにもかえて愛する名もない国民」(昭和25年2月、郵政省人事部訓練課長名の「教養の書」刊行のことば)を育てるために、1950(昭和25)年から刊行した「教養の書」と題するシリーズの第19冊として、1952年3月、御茶の水書房から刊行された。・・アルバイト学生として丸山の口述筆記を担当したのが後年の経済史家安良城盛昭だった。》
1953年1月に第2刷。56年2月第2版。以後、絶版。多方面から再刊が望まれたが実現せず、『丸山眞男集』第5巻に収録されることによってアクセスが容易になった。2014年2月、松本礼二編『政治の世界他十編』岩波文庫にも収録。
 
8.丸山眞男みすず書房
みすず書房は、小尾俊人らが1947年9月1日に創設。
*小尾は「柊会」を組織(1948年11月)。丸山眞男、辻清明猪木正道、佐々木斐夫、島崎敏樹日高六郎、福武直ら。この柊会のメンバーが共同執筆した『社会科学入門』に丸山は「政治学」(後に「政治学入門(第一版)」と改題)を発表(1949年10月刊)。
*小尾の言 《〔丸山〕先生の「政治学入門』もここ〔柊会〕から生まれたのだし、ここで知己となられた福武直先生が産婆役で『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)の公刊も実現されたのである。」(「柊会のころ」)
*パンフレット「四社共同ブックフェア丸山眞男生誕100年」に寄せたみすず書房の守田省吾もよれば
丸山眞男に書き下ろしをお願いするのはむつかしく、・・小尾俊人は、単行本未収録の丸山の書いた文章をほぼ探し出し、年代順に並べて編集し、1976年に『戦中と戦後の間』として刊行した。・・それ以後のみすず書房からの本はすべて遺稿類にもとづく。》
 
9.丸山眞男と他の出版社
筑摩書房 『展望』(1946年1月創刊)1949年1月号に「近代思想史における国家理性の問題(1)」を寄稿。丸山が企画した「近代日本思想史講座」全12巻(1959-)は、丸山担当の『正統と異端』の巻が未刊。筑摩書房臼井吉見の言「丸山さんは筑摩を国営出版社とまちがえているんじゃないか」。1992年『忠誠と反逆』を刊行。
*『潮流』を出した吉田書房(のち潮流社) 同社の企画の相談にのっていた宇佐美誠次郎(日本共産党員)は丸山の友人。丸山は雑誌『未来:芸術と批評』第1号(1947年7月)の同人座談会に出席、また寄稿している。編集部に橋川文三
*弘文堂 橋川文三が企画に協力した「社会科学講座」全6巻(1950‐51)の第5巻に寄稿。編集担当は西谷能雄(1951年独立して未来社を興す)。講座「近代国家論」全3巻(1951-52)は丸山が中心的に関わった企画(辻清明は「社会集団の政治機能」を寄稿)。編集担当は源了圓(後、東北大学教授、国際基督教大学教授)。
平凡社 『政治学事典』(1954年2月)は、庶民大学三島教室の笠井章弘(のち平凡社に入社)の企画(『回顧談』下、114頁)。編者(丸山、辻清明中村哲)は庶民大学の講師。『政治学事典』の編集には東大新聞の編集に関わり、東京大学出版会の企画協力をしていた松下圭一があたった。
 
10.出版・言論を支えたボランタリーな公共世界:丸山眞男と主要メンバー
・1945年10月、青年文化会議を結成:瓜生忠夫、川島武宜大塚久雄野間宏、内田義彦、桜井恒次、中村哲
・1945年12月、三島文化協会主催の「庶民大学講座」で講演。46年2月に8回、12月に2回、庶民大学三島教室で講義。(47年4月の衆議院選挙に立候補した庶民大学幹部=日本共産党を丸山は応援するも落選。)
・1946年2月、思想の科学研究会設立に参加:鶴見俊輔鶴見和子、武田清子、武谷三男都留重人渡辺慧。『思想の科学』を刊行。
・1946年2月、20世紀研究所設立に参加(『丸山集』年譜による);「中野好夫氏を語る」『丸山集』12巻160頁では「ぼくは研究所が出発してからかなり遅く入りました」:清水幾太郎所長、細入藤太郎、林健太郎福田恆存高橋義孝渡辺慧中野好夫
・1946年2月、公法研究会を主宰:中村哲、戒能通孝、辻清明、磯田進、川島武宜、有倉遼吉。
・1947年1月、民主主義科学者協会に参加。
・1947年秋、安藤昌益研究会結成に参加:服部之総、E.H.ノーマン、奈良本辰也三枝博音、野原四郎、松田智雄。
・1948年2月、未来の会同人に加わる:杉浦明平木下順二野間宏、生田勉、寺田透、猪野謙二、瓜生忠夫。雑誌『未来:芸術と批評』(1948年)を潮流社から刊行。
・1948年11月、みすず書房の執筆者を中心とする柊会に加わる:小尾俊人、辻清明猪木正道、佐々木斐夫、島崎敏樹日高六郎、福武直。
・1949年3月、平和問題談話会設立に参加:安倍能成代表。知識人の会結成に参加:清水幾太郎中野好夫吉野源三郎
・1949年秋、東大協同組合出版部顧問会に入る:渡辺一夫中野好夫中島健蔵、宮原誠一、福武直。
 
おわりに
*戦前戦後と書評紙を主宰してきた田所太郎の1973年の言
《日本の学術出版は、人間学が欠けている優秀な専門家をつくるのに貢献したのか、知的俗物とでもいうべき大衆をつくったのか、あらゆる問題を疑問符のなかに 投げ込み、学問の意味をトータルな生のなかで問いつめつづける真の知識人をつくったのか》(『戦後出版の系譜』31ページ)
岩波書店常務取締役小島潔の2014年の言
《〔丸山の著作集を刊行するためのヒアリングの後の御駄弁りの際、1989年の東欧激動について〕先生の見通し全体をつらぬく揺るぎない社会科学的思考に、私は強い感銘を受けた。「学問とはこれほどのことができるのか」「社会科学というのはエライものだ」という思いは、その後の私の支えとなった。それから20年。いまや社会科学的思考は日本の知的風土からすっかり消え去ってしまったように見える。》(パンフレット「四社共同ブックフェア丸山眞男生誕100年」)
杉田敦「丸山は生きている」(同上パンフレット)
 
(注:丸山の事績については1997年3月刊行の『丸山眞男集』別巻収録の「年譜」「著作目録」に依拠することが多かったが、不正確なところがあり、別の資料で補正した。また、『丸山眞男手帖 休刊号』(2014年8月15日)に寄せた拙稿「丸山眞男東京大学出版会」と重なるところがある。合わせて参照していただければ、幸い。)
 
関連年表
1946.4 丸山「超国家主義の論理と心理」を『世界』五月号に発表。
1947.4 東京大学協同組合出版部の第一作、『学問と現実』刊行。
1949.10   同出版部『きけわだつみのこえ』刊行。
1950.12  丸山も共同研究に参加した飯塚浩二『日本の軍隊』刊行(同出版部)。丸山、胸部結核が判明。
1951.2  丸山、肺結核のため国立中野療養所に入院(同年9月に退院)。
1951.2.28 南原繁総長により東京大学出版部主任の辞令が石井和夫らに交付さる。翌3月1日に業務を開始。
1951.11.11 西谷能雄、未来社を創業。
1952.2 『政治の世界』刊行(御茶の水書房)。
1952.6  丸山、目黒区宮前町の義兄の家から、武蔵野市吉祥寺の新築に転居。
1952.12  『日本政治思想史研究』刊行(東京大学出版会)。翌年11月、毎日出版文化賞受賞。
1956.12  『現代政治の思想と行動』上巻(未来社)刊行。下巻は翌57年3月。
1961.11 岩波新書『日本の思想』刊行(岩波書店)。
 

船山馨『蘆火野』

船山馨『蘆火野(あしびの)』読了。400字1300枚の長編歴史ロマン。1972年4月から翌年6月まで朝日新聞に連載され、73年7月に朝日新聞社から刊行された。幕末の箱館と江戸とパリを舞台。主人公は、みなし子のおゆきと、直参小普請組でいち早く武士身分を脱したの河井準之助。フィクションであるが、江戸から箱館の諸術調書の武田斐三郎に学びに来た新島襄・準之助とおゆきの出会いから本書が始まるように、同時代のさまざまな実在の人物が登場する。上野戦争箱館戦争、そして主人公二人が渡ったフランスでの普仏戦争、パリコミューンを背景として、名もなき二人の愛と生死が描かれる。

時代に翻弄される人々が描かれるという紋切り型の小説ではない。さまざまな悲運に見舞われながらも、しかし、自らの運命を切り開こうとして精一杯生き切ろうとする人々が精彩をもって描かれる。その生を象徴するのが、本扉裏に引用される俳句「美しき蘆火ひとつや暮の原」(阿波野青畝)である。枯れたアシを燃やした火が蘆火であり、その火はわたしたちの生そのものである。

読み応え十分の作品であるが、今はほとんど読まれていないのではないか。主人公二人がパリで夢見た、函館に戻って開こうとした庶民向け洋食店「雪河亭」は、パリコミューンで落命した準之助との間の子によって函館基坂下に実現したと作品の末尾に書かれている。それにちなんで函館の老舗である五島軒が蘆火野カレーをメニューとし、同店にはメモリアルホール蘆火野が併設されている。

それにしても、諸学調所の武田斐三郎(五稜郭の築造者)を重要な登場人物とする本作品があるとは最近まで全く知らなかった。また、幕末に来日したフランスの外交官や軍事顧問団も丁寧に描かれるているのも本書の特徴である。

戊辰戦争普仏戦争とパリコミューンを重ね合わせた本書は、第二次大戦・太平洋戦争に至る近代史の根にあるもの、国家と普通の人々との関わりを探ろうとした船山馨の渾身の作品である。

斎藤勇が『南原繁著作集』第6巻の月報に寄せた「毅然たる政治学者の和歌」

斎藤勇が『南原繁著作集』第6巻の月報に寄せた文章に「毅然たる政治学者の和歌」がある。南原の歌集『形相』について触れたものだが、その中で太平洋戦争中のある思い出を語っている。
以下に登場する著者は和辻哲郎、著書は『日本の臣道、アメリカの国民性』(筑摩書房昭和19年)であり、アメリカ研究家は、高木ハ尺である。

《私は個人的な思い出を挿入しておきたい。それは未だ曾て活字になったことのない一挿話である。
太平洋戦争も終りに近づいたころ、新聞雑誌は「米英鬼畜」という新造ー語を度々用いた。それを説明して意義あるものとするために書いたのだと、著者が私に言った小冊子が大変な好評を博し、初版二万部という噂であった。私はその著者が自由主義者であり卓抜な哲学者であると考えていたので、それを購読したが、実に驚いた。前半の論文には「天皇は……現御神[あきつかみ、筆者註]にまします」とあるので、私はこの自由主義者がまさかと思って読み返したところ、同じことが二回くり返して書いてある。また後半に書いてあるアメリカの国民性に対する非難は甚だ等を得ない。それで私はその著者に面会を求めて、まずアメリカに関する同書の記述が怪しい点について、質疑の形で話し出した。それに対して著者は一応丁寧に答えてくれた。しかし私が意見を言い始めると、忽ち色をなして怒り出したので、私は議論ができないと思って、その部屋を出た。そして万一これが誤り伝えられて面倒な事件となる場合を考えて家族にだけは話し、また一人のアメリカ研究家に報告したほか、著者の名誉のために一切口外しなかった。しかし初めにアメリカ関係の記述について私が正確な理解をもつため私の質問に応じてくれたアメリカ研究家から聞かれたのであろう、南原教授はわざわざ英文学研究室に来て、 私を慰めまた励まして下さった。全く思いがけない芳情は、今なお折々の思い出して、ひそかに感謝している。》


「太平洋戦争とアメリカ文学研究」という項目 において、『アメリカの国民性と文学』が1942年に刊行された。それについて、斎藤勇は次のように語っている。
《それが本になっても、私はだれにも非国民と呼ばれたことはないように思います。(笑) ……しかし、戦争が何年か続いたころには、「英国びいきの非国民」というような者として、尾崎行雄和辻哲郎、斎藤勇と書いた新聞がありましたよ。その小さい新聞が私に郵送されたので、、それが私の見聞した唯一の非難です。》
 ここでは、小さい新聞で、尾崎行雄和辻哲郎、斎藤勇が「英国びいきの非国民」として非難されていることが注目されるが、以下、話は次のように続く。
《和辻君は東大文学部の同僚で、顔はよく知っていたが、その和辻君が、[『日本の臣道、アメリカの国民性で] あの自由主義者と呼ばれていた学者が「鬼畜米英」という当時の流行語を証明しようとしたことにびっくりし、悲しくてたまらなかったですね。》

20110426

吉野作造と高田畊安/耕安

吉野作造選集』に収録された日記に出てくるのは「高田耕安」。最初、茅ケ崎の南湖院の院長・高田畊安であることが特定できなかった。その後、1911年8月に高田畊安が国際結核病学会出席のためにローマに向ったが、ローマでのコレラ発生により学会が1年延長となったため、ベルリン大学に入学した、ことを知った。吉野日記で1911年11月にベルリンで会う高田耕安は、南湖院の高田畊安に間違いない。私は「耕安」は吉野作造の誤記と推測した。

ところが、茅ヶ崎市史ブックレット『南湖院』には、明治36年の『新人』第4巻第1号の表紙が載っている。表紙の目次には、海老名弾正「マルチンルーテルの基督教」、浮田和民「基督教と社会問題」、井上哲次郎「日本の徳教に就きて」のほかに、高田耕安「耶蘇の新天地」がある。あれッ、高田畊安ではなく高田耕安となっている。アレッ。

さらにみると、茅ケ崎市史ブックレットによれば、高田畊安の名前が耕安と表記されていることはよくある。「綾部小学校の教員が畊安の教科書の表紙に「高田耕安」と書き記した」ので、自他ともにそう書くようになった、と。その後、1896年「東洋内科医院」設立以降、戸籍上の畊安を使うようにしたが、耕安も使われたという。吉野作造の表記「耕安」も間違いとは言えない。吉野自身は、戸籍上は「作蔵」なのに「作造」を使っている。(20120729)

パブリケーション(出版すること=公開すること=公共すること)

私は私の意識の25時間目で、パブリケーション(出版すること=公開すること=公共すること)を考えているという妄想を抱いています。それは、24時間とは地続きではないような気がします。この妄想は、出版に携わった最初からあって、今でもうまく解釈できないでいます。

日本における大学出版の歴史についての 私の仮説:

日本における大学出版の歴史についての 私の仮説:

例えば、イエズス会キリシタン版は、日本のコレジオに付設された印刷所でなされたものがほとんどであり、コレジオを高等教育機関をみなすことができれば、近代日本の大学出版の「消された」先駆形態と言えるのではないか。

例えば、徳川家康足利学校の分校として伏見につくった円光寺学校では木活字で『孔子家語』などを刊行しているが、フロイスなどが寺の教育施設を「大学」と呼んでいることに鑑み、この古活字版を近代日本の大学出版の「消えた」先駆形態と言えるのではないか。

20170712