川端康成を読む⑴

 この連休の間、川端康成の作品を集中的に読んだ。手に取ったのは、集英社版『日本文学全集39-40 川端康成集(一)(二)』(1966年)。定価290円。半世紀前に購入して拾い読みした本である。(集英社版のこの全集は、埴谷雄高の『死霊』が収録していたり、また安価であり、だいぶお世話になった。)

 川端の作品を読み直してみたいと思ったのは、論創社の『佐左木俊郎探偵小説選 全二巻』に寄せて佐左木俊郎論を準備していたときに、昭和初期の川端の文芸時評などを読んで、川端の卓抜な批評眼に感動したことがきっかけである。そして、私がそれまで読んでいた小説「雪国」「伊豆の踊り子」「千羽鶴」「山の音」「眠れる美女」またノーベル賞受賞講演「美しい日本の私」などと、この犀利な批評眼とはいったいどのような繋がりがあるのであろうかと思った。これを解く一端でもつかめればと思ったのであるが、川端康成全集を読むだけの気力はない、手元にあった集英社版を読み通すことにした。

 付け加えていうならば、川端康成の言う「日本の美」とか「日本古来のかなしみ」とかの「日本」とは何か、あるいはそのような「日本」などあるのか、はたまたノーベル賞受賞により「日本文学の代表」「日本文化の代表」とみなされたことーーその危険性について川端は気づいていたーーによる陥穽に足をすくわれることはなかったのか、なども関心を抱いているが、一挙にこれらの問いを解くことはできまい。

 また、川端康成の文学的同志と言われる横光利一との比較もしてみたいとも思った。かねてより、横光利一の華麗なる成功と惨憺たる失敗のなかに、何かの可能性を見出せるのではないかと思ってきたからである(中山義秀へのわたしの偏愛も関連する)。

 まずは、集英社版の目次を示しておこう。読後感想文は適宜、書くことにしたい。

日本文学全集39 川端康成集 (一) 雪国 伊豆の踊子 十六歳の日記 死体紹介人 温泉宿 禽獣 虹 母の初恋 燕の童女 ゆくひと 掌の小説 浅草紅団

日本文学全集〈40〉川端康成(二)千羽鶴 山の音 眠れる美女 末期の眼 再婚者純粋の声

長谷川誠一『函館英学史研究』ーー武田斐三郎、名村五八郎、堀達之助

2019/05/04

長谷川誠一『函館英学史研究』(ニューカレント インターナショナル刊 1986.11)読了。A5判上製カバー350頁。これは、銀閣寺近くの古書店 竹岡書店で購入したもの。この本は井上能孝『箱館英学事始め』(北海道新聞社 1987)と共にハコダテ英学史についての先駆的基本図書である。
特にこの長谷川本は、一次資料を探索しそれを読み込み、通説を正し謎を解いていく専門的研究であるが、推理小説でも読むような面白さがある。
箱館英学の中核となった三人の人物、①武田斐三郎(箱館の諸術調所の指導者で、五稜郭の設計建設者)、②名村五八郎(箱館の英語稽古所のリーダーで、万延遣米使節の通詞)、③堀達之助(『英和対訳袖珍辞書』の編纂者で、箱館洋学所を運営し函館文庫を創設) の事績を明らかにしただけでなく、幕末維新期のハコダテの地で交錯した多くの人物(大島高任、立広作、塩田三郎、尺振八、ジョン万次郎、新島襄など; ラナルド・マクドナルド、ペリー、ブラキストン、オールコックアーネスト・サトウイザベラ・バード、ニコライ、M・C・ハリスなど) が登場して、巻措く能わず。
本書が第一回日本英学会豊田賞を受賞したのも頷ける(残念だが、編集および校正はおおいに不充分だが)。
なお、著者の長谷川誠一の履歴が分からない。1977年から88年まで酪農学園大学に務めていたこと、2013年6月21日の逝去、享年97(ということは1917年生か)は分かったが。

 

林子平『海国兵談』自費出版見積り

『季刊創文』No.13(2014春)の村上哲見「江戸時代出版雑話」が面白い。日本の書籍出版は、仏典から始まり、漢籍翻刻、かな文字の古典に及んだことを示し、そしてこれら「物の本」を「本」というのであって、通俗読み物や絵本などは「本」ではなく「草紙」と呼ばれ、取り扱う業者も本屋と草紙屋は区別されていたという。

「江戸時代出版雑話」は、『三国通覧図説』(版元は須原屋市兵衛)を著して好評を得た林子平が、引き受けての本屋がなかった『海国兵談』を自費出版すべく、本屋に見積もらせた経費の一覧を紹介している(1000部の場合)。「彫賃」が総額の1割に対し「紙と表紙」で7割。人件費が安く紙代が極めて高かったことが分かる。

出版費用を苦心算段してようやく刊行した『海国兵談』は、たちまち咎められて版木は没収、林子兵は国元蟄居。その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き「六無斎」と自嘲。須原屋市兵衛も咎められ、既刊の『三国通覧図説』も絶版、重過料を科せられ、以後没落していくことになる。

2014/04/28

陸奥宗光「東北紀行」

村井章介先生より「陸奥宗光「東北紀行」:翻刻と解題(上)」(『東京大学史料編纂所研究紀要』31、2021年3月)を恵贈さる。元老院幹事の官にあった陸奥宗光が、1876年8〜9月に、太政大臣三条実美を頭とする北海道・東北地方巡視に随行した際の旅行記。(上)は、北海道(箱館、札幌、小樽が中心)と青森についての記録。

拾い読みしただけだが陸奥「東北紀行」は、明治初期の北海道の記録として非常に面白い。箱館では学校教育や教会などについて、石狩川河口巡視では、ホロナイやホロムイブトの地名が出てきて、伊達邦直らが開いたトウベツ、また千島樺太交換条約に伴った「樺太土人」が移居した「ツイシカリ」についても言及している。ほか、開校したばかりの札幌農学校には「教長クラールク氏」ほか「洋人三人」がいたことも記録されている。

関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代』全5巻

関川夏央谷口ジローの劇画『『坊っちゃん』の時代』全5巻(双葉社1987-97)を読み終えた。最初に大逆事件を扱った『第四部 明治流星雨』を読み、これは並々ならぬ力作であると感じ入り、ほかの巻をも読まずばなるまいと思い、入手して読んだのである。

全巻構成と主人公は次の通り。
第一部 「坊っちゃん」の時代
夏目漱石森田草平大塚明子
第二部 秋の舞姫
森鴎外とエリスと二葉亭四迷
第三部 かの蒼空に
石川啄木金田一京介と管野須賀子
第四部 明治流星雨
幸徳秋水と管野須賀子と荒畑寒村
第五部 不機嫌亭漱石
夏目漱石石川啄木

虚実取り混ぜたフィクションであるが、虚誕としては山田風太郎の明治ものには及ばないながら、谷口ジローの劇画はとても優れたものであり、総体として明治後期の時代と明治人たるものを感じるには、いい入門書である。サブタイトルの「凛冽たり近代 なお生彩あり明治人」の示す通りである。
なかでも傑出しているのは大逆事件を扱った第四巻。幸徳秋水、管野スガ子、堺枯川荒畑寒村など、また、山県有朋桂太郎平沼騏一郎原敬、そして森鷗外石川啄木など、直接間接に事件に関わる人物の特徴も捉え見事に描いている。これは、大逆事件の真相が十分に明らかにされていない分、作者らの想像力が事実に迫ろうとする意義込みと迫力が、他の巻と異なり、格段に発揮されたからであると思う。オススメしたい。
なお、石川ジローの描画は高く評価されるべきだが、人物の描き分け、特に女性の顔の描き分けが、十分ではないように思えた。誰なのか分からなくなって、ページをめくり返すことが何度かあった。この力量の持ち主にして何故、という疑問を拭えなかった。

(20160916)

明治文化研究会の機関誌『新旧時代 明治文化研究』

明治文化研究会の機関誌『新旧時代 明治文化研究』第三年第七号(1927.7) を入手。明治初期の外交顧問ルジャンドルを取り上げた吉野作造の「日本外交の恩人・将軍李仙得」、村上英俊の事績を追った溝口貞治「仏学始祖村上英俊の伝記を編む経路」など面白い。
なお、この研究会の機関誌の題の変遷について整理するとーー1925年2月創刊時は『新旧時代』、27年3月〜10月まで『新旧時代 明治文化研究』として刊行。翌28年1月に『明治文化研究』として新たに刊行され、29年7月には『明治文化』と改題、44年1月まで刊行。
版元は当初、福永書店、のちに日本評論社。双方とも吉野作造と縁の深い出版社だが、また吉野作造と出版社との葛藤もあった。その一端は、小尾俊人『出版と社会』(幻戯書房2007)に描かれている。

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吉野作造ー福澤諭吉ー桂川甫周(四代と七代)の連関

吉野作造福澤諭吉桂川甫周(四代と七代)の連関】

ヤフオクで落札した、吉野作造著『主張と閑談第二集 露国帰還の漂流民 幸太夫』(福永書店、大正13年9月20日発行、定価1円50銭)が届いた。四六判変型並製。90年前の本だ。表紙が外れかかっている際どい状態の本。ただ、本の後半はペーパーナイフが入っていない頁があり、本書がアンカットだったことが分かる。
開いて見てアッと思ったのは、冒頭の口絵が青年福沢諭吉文久年間(1860年代初め)に『唐人往来』を書いた頃の福沢の立ち姿であり、福沢が七代桂川甫周に贈ったという。七代の孫の今泉源吉秘蔵を模写したもの。ここに、甫周-諭吉‐作造というラインを引くことができる。
福沢諭吉が口絵を飾るのは、『露国帰還の漂流民 幸太夫』が、大黒屋幸太夫のロシア往還の記録を扱うだけでなく、「維新前後の国際協調主義者」の論考で福沢の『唐人往来』を取り上げているからであろう。それにしても一冊の著書の口絵に載せるとは、吉野の福沢への敬愛を表すものとみるが、いかがだろうか。
なお、吉野が幸太夫のロシア往還について記した際に依拠した主なものは、将軍家斉や老中松平定信に謁見した際を四代桂川甫周が記録した『漂民御覧之記』である。これはとは別に、他の資料を補いながらまとめたのが『北槎聞略』(現在、岩波文庫)であり、これが活字となるのは吉野没後の1937年、印刷所三秀舎の嶋連太郎によってである。(20140220/20160220補訂)

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