林勉先生のこと

万葉集日本書紀の研究者である林勉先生が昨2020年2月13日に亡くなられたことを本日知りました。95歳。わたしが大学2、3年生(1972-73) の時、先生の「古代ゼミ」で教えを受けました。古事記万葉集日本書紀本居宣長などを読みました。

先生は2019年11月13日に東京学芸大学の万葉池を散策する催しの解説を担当されていましたので、ガンとたたかいながら最期まで万葉に取り組まれていたことになります。

旧制広島高校の1年生の時に太平洋戦争開戦。その時のことを林先生は東大十八史会編『学徒出陣の記録』(中公新書1968)に書いています。その続編である『学徒出陣から五十年』(揺籃社1993)は先生からご恵贈いただきました。東大十八史会は1943年10月1日に東京帝国大学文学部国史学科に入学した学生の会であり、林先生の他に、色川大吉、川副武胤、高橋昌郎、竹内道雄、土田直鎮、虎尾俊哉、尾藤正英などが名を連ねています。

林先生は単独著をあらわすことはありませんでしたが、それは東大大学院で国文学の師である五味智英先生の「学者は論文を書くことが第一の任務である」に従ったものによると聞いています。

林先生は、内村鑑三『後世への最大遺物』の言葉「アノ人はこの世に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。」の如く、孜孜として万葉集日本書紀など古典の校訂考証にあたられた方だと思います。ご冥福をお祈りします。

略歴(ネットより引用)

一九二五年 滋賀県出身

一九六二年 東京大学大学院博士課程単位取得退学

東京学芸大学名誉教授・ 安田女子大学大学院講師

主な著書  『契沖全集』(岩波書店・共編)

『契沖研究』(岩波書店・共著)

日本書紀上・下』(日本古典文学大系・原文校異訓読分担)

日本書紀上・下』(中央公論社・共著)

日本書紀一〜五』(岩波文庫・原文校異訓読分担)

日本書紀兼右本一〜三』天理図書館善本叢書和書之部(八木書店

西本願寺本萬葉集(普及版)巻第一〜二十』(主婦の友社、おうふう・監修)

都築勉『おのがデモンに聞け―小野塚・吉野・南原・丸山・京極の政治学』(吉田書店)読了。

都築勉『おのがデモンに聞け―小野塚・吉野・南原・丸山・京極の政治学』(吉田書店)読了。素晴らしく面白い本。5人の政治学者(小野塚喜平次、吉野作造南原繁丸山眞男京極純一)を取り上げている、素晴らしく面白い本。

簡単に書けば:①20世紀日本政治学の大きな見取り図の中に各人を捉えて位置づけたこと、②小野塚が「日本の最初の政治学者」であることを、大学制度的だけでなく、学問内容的に根拠付けたこと、③小野塚政治学を引き継ぐ吉野の言論活動を、啓蒙ではなく、伝道の精神によるものと洞察したこと、④南原晩年の『政治哲学序説』を「政治原論」として捉え返したこと、⑤丸山を戦前の政治学の系譜に連ねて検討したこと、⑥京極政治学の全体像を初めて本格的に描いたこと。

詳しくは別途。

 

1/26追記 東大政治学を対象とした都築勉『おのがデモンに聞け』(吉田書店)を読みながら思った一つのことは、(著者も気付いていることであるが)日本の政治学の源流は東大だけではなく、少なくとも同志社-早稲田系列も同等に扱わないと、バランスの取れた評価はできないだろうということだった。
その早稲田政治学の源流を精力的に掘り起こしたのが、14年前に急逝された内田満先生の『日本政治学の一源流』(早稲田大学出版部)である。

佐々木揚先生追悼

東アジア近代史学会の『東アジア近代史』第24号(2020.6) に「佐々木揚先生追悼記事」として、檜山幸夫、川島真、中見立夫の3人が追悼文を寄せている。佐々木先生は佐賀大学名誉教授。2000年に『清末中国における日本観と西洋観』を東京大学出版会から刊行している。

わたしが佐々木揚先生を知ったのは、先生の師にあたる坂野正高先生の葬儀(1985年)の時であり、その後も坂野先生の命日の雑司ヶ谷墓地へのお参りと食事会で何度かご一緒した。墓参には、ご家族、佐々木先生のほか、坪井善明、古藤友子、高橋進の諸氏が常連だったと記憶する。

川島真が書いているように、坂野先生の逝去直前に上梓された『中国近代化と馬建忠』(東京大学出版会)の書評を佐々木先生は寄せている(『史学雑誌』94-11、1985.11)。それは、坂野の研究への評価と自らの研究史上の立ち位置をよく示したものだという。

檜山によると、四半世紀ほど前に佐々木先生は「日本史研究者の思考回路の狭さ、無意識に陥っている一国主義的な歴史観、更には無意識的な大国主義的意識」に対して苦言を呈し、日本史の事象を、東アジア史からアジア史、さらに世界史という視点から捉えることの重要さを訴えていたという。

中見の回想では、東大定年後の坂野は東洋文庫で若手研究者を集めた研究会を行っていて、そこには、佐々木、濱下武志、森山茂徳、坪井善明、古藤友子が集っていたという。幽明界を異にした方、また病床にある方もいる。多くの時間が流れた。

田山花袋『重右衛門の最後』

田山花袋『重右衛門の最後』を読了。これは、自然主義作家花袋が生まれる画期となった作品と言われる。初版は1902年(明治35)5月、新声社のアカツキ第五篇として刊行された。新声社は新潮社の前身。
『重右衛門の最後』は連作として構想されながら続かなかったため独立作品としては結構に難がある。しかし、話者が長野県の村に行って体験する連続放火事件と、犯人とされる村人の重右衛門の生い立ち、そして重右衛門に対する村落共同体の掟の発動についての記述は、自然風景の描写と相まって、見事なものである。やはり優れた作品と言うべきだろう。
造本はカバー付きという。(本文写真は、戦前の全集版だが、タイトルが初版では「最後」、全集版では「最期」となっている)

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西野嘉章著『装釘考』(玄風舍発行、青木書店発売、2000年)

西野嘉章著『装釘考』(玄風舍発行、青木書店発売、2000年)を再読。凝った造りで、上製、ジャケット・函付。サイズは224×159mmなので菊判変型ないしA5判変型。活版で、おそらく原版刷。本文は概ね旧字体。本文用紙も敢えて上質紙ではないものを使用。「装釘」という表記にも著者の思考と嗜好があらわれている。

世に特殊な限定版の書籍の装釘を主に扱ったものはあるが、本書は限定版に偏ることのない、(著者にしては)バランスの取れた近代日本装釘史として読める。

カラーの書影が収録されていてそれを見るだけでも楽しいが、本文で言及される本がどこのカラー口絵にあるのか(ないのか)ページ付けされてなくて、自分で探さなければならない苦労も楽しい。

(現在は平凡社ライブラリー版で入手できる)

 


目次は以下の通り。

近代造本史略 序にかえて

活字/南京綴じ/和装/改題御届/背文字/稀密画/合巻/異装/新装/小口/絵表紙/総クロース装/墨ベタ/軟表紙/軽装/色/三六判/線/挿画/袋紙/菊判/見返し/図様/盛装/二度刷り/外函/銀箔/金版/袖珍本/裏絵/包紙/図案/発行日/革装/込み物/作字/誤植/定価/用紙/横文字/クラフト紙/絵文字/仮綴じ/三方アンカット/ノンブル/遊び紙/継ぎ表紙/メタル装/普及判

歴史の文字 記載・活字・活版

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カラフトの満漢日文史料 ナヨロ文書

カラフトの満漢日文史料:

中見立夫(東京外大名誉教授)の「満史満学研究劄記」(『満族史研究』18号、2019.12)を読んでいたら、北大図書館所蔵の「カラフトナヨロ惣乙名文書(ヤエンコロアイヌ文書)」が2019年度に重要文化財に指定されたことが出ていた。北大図書館のサイトの説明は次の通り。

《カラフト西岸ナヨロの惣乙名(複数村落の統括者)をつとめたアイヌの氏族長の家に保管,伝来した文書群で,清朝関係文書4通と日本側作成文書9通の計13通で構成されます。前者は18世紀後半から19世紀前半にかけての満文2通(1通は官印が押捺された公文書)と漢文2通で,清朝への進貢に関する内容をもっています。日本側作成文書は,江戸時代後期(18世紀末から19世紀中葉)のもので,最上徳内らカラフト探査に携わった人物による前記満文文書ほかを披見した旨の書付,ならびに箱館奉行所等発給の惣乙名職等の任免に関する文書の2種に大別されます。18世紀から19世紀にかけてのカラフトアイヌと中国,日本との関わりを伝える極めて稀有な文書群であり,当該期のいわゆる北方世界の歴史研究上に学術的価値が高いと評価されました。》

中見教授によれば、この史料に注目した北大言語学教授の故池上二良で、本史料の写真・史料解題は池上編『ツングース満洲諸語資料訳解』(北大図書刊行会、

2002)に「カラフトのナヨロ文書の満州文」として収録されているという。

なお、満文史料の一つは、乾隆帝時代1775年のもので、清朝勢力の沿海州やカラフトへの浸透を示すもので、そのことに日本が気付くのは19世紀に入っての間宮林蔵探検によってであったという。

参考 相原秀起『追跡 間宮林蔵探検ルート』(北大出版会、2020)

【坂野潤治先生逝去にあたり思い出すこと】

 東京大学出版会でわたしが編集局に配属されたのは1980年。その時点で、坂野先生の担当者は、『明治憲法体制の確立』の編集者渡辺勲と、『教材日本憲法史』の編集者羽鳥和芳という先輩がいた。それぞれ『日本近代史』と『日本憲法史』との執筆を先生と約束していて、わたしが入り込む余地はなく、直接に先生の著作を担当したことはなかった。とはいえ、坂野先生とはいろいろと関わりがあった。

 思い出すことをあげる。

①1980年代はじめ、ある原稿を担当した際、その明治〜戦前期の史料の引用が新仮名遣いであることに不安を感じて、それが許されるのかどうか坂野先生に相談したことがある。先生は、学問的には新仮名遣いでは問題があると、明快に答えられたと同時に、史料の扱いについて編集者として気を付けるように、ときつく言われたことを思い出す。これが最初の出会いである。

② 1988 年ころ、渋谷の居酒屋「じょあん」に立ち寄ったら、坂野先生が小学館の編集者と一緒にいる場に遭遇した。当時、坂野先生には、升味準之輔先生退職記念論集にご寄稿いただく約束でありながら論文の題名をまだいただいていなかったため、社内で論集企画を提案できないでいた。それもあって、微醺を含んだのち私は、打ち合せ中の坂野・小学館編集者の間に割り込んで、題名を問い質そうとした。その無礼が先生の怒りを買ってしまった。後日、詫び状を書いて先生の研究室に届けることに至った。このことが理由ではないが、升味記念論集は実現できなかった。

③1993年の有賀弘先生の退職を記念するパーティの際、司会役の坂野先生から一言話すように突然指名された。その前に坂野先生は、退職される有賀先生は時間ができるだろうから本の執筆に精を出されることを期待すると話されていたのに、わたしは「もの書くことは罪悪であることをよく分かっていらっしゃる有賀先生であるので云々」と場違いなことを言ってしまった。しかし坂野先生はニコニコされていた。ああ、坂野先生はよく分かっている、と思った。

④東大社研を1998年に退職されたのち、坂野先生は千葉大学に移られ、同大学退職を機会に関係者が論文集『憲政の政治学』を出す企画がなされ、この企画はわたしが担当した。編集会議を学士会館で二回行ったが、その会議の費用は坂野先生が一切負担された。これは坂野・新藤宗幸・小林正弥の共返事で2006年1月に刊行された。

⑤『憲政の政治学』刊行を機に、『日本憲法史』をお願いしていた羽鳥和芳が坂野先生に攻勢をかけ、趣旨を少し変えるかたちで、これは『日本憲政史』として2008年5月に刊行された。あとがきにその経緯が書かれている。

⑥執筆依頼から50 年を経て2008年に松本三之介『吉野作造』が刊行された。『UP』誌上での書評は坂野先生以外にないと考えてお願いしたら快く引き受けていただき、これは「日本憲政史の中の吉野作造」として『UP』2008年6月に掲載された。自著『日本憲政史』とつなげて、松本『吉野作造』に異論を述べつつ、吉野民本主義は、単なる自由民主主義ではなく、社会民主主義であることを主張した論考であり、けっこう話題を読んだ。

 以上、思い出すままに。

[2020/10/25修正]