田山花袋『重右衛門の最後』

田山花袋『重右衛門の最後』を読了。これは、自然主義作家花袋が生まれる画期となった作品と言われる。初版は1902年(明治35)5月、新声社のアカツキ第五篇として刊行された。新声社は新潮社の前身。
『重右衛門の最後』は連作として構想されながら続かなかったため独立作品としては結構に難がある。しかし、話者が長野県の村に行って体験する連続放火事件と、犯人とされる村人の重右衛門の生い立ち、そして重右衛門に対する村落共同体の掟の発動についての記述は、自然風景の描写と相まって、見事なものである。やはり優れた作品と言うべきだろう。
造本はカバー付きという。(本文写真は、戦前の全集版だが、タイトルが初版では「最後」、全集版では「最期」となっている)

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西野嘉章著『装釘考』(玄風舍発行、青木書店発売、2000年)

西野嘉章著『装釘考』(玄風舍発行、青木書店発売、2000年)を再読。凝った造りで、上製、ジャケット・函付。サイズは224×159mmなので菊判変型ないしA5判変型。活版で、おそらく原版刷。本文は概ね旧字体。本文用紙も敢えて上質紙ではないものを使用。「装釘」という表記にも著者の思考と嗜好があらわれている。

世に特殊な限定版の書籍の装釘を主に扱ったものはあるが、本書は限定版に偏ることのない、(著者にしては)バランスの取れた近代日本装釘史として読める。

カラーの書影が収録されていてそれを見るだけでも楽しいが、本文で言及される本がどこのカラー口絵にあるのか(ないのか)ページ付けされてなくて、自分で探さなければならない苦労も楽しい。

(現在は平凡社ライブラリー版で入手できる)

 


目次は以下の通り。

近代造本史略 序にかえて

活字/南京綴じ/和装/改題御届/背文字/稀密画/合巻/異装/新装/小口/絵表紙/総クロース装/墨ベタ/軟表紙/軽装/色/三六判/線/挿画/袋紙/菊判/見返し/図様/盛装/二度刷り/外函/銀箔/金版/袖珍本/裏絵/包紙/図案/発行日/革装/込み物/作字/誤植/定価/用紙/横文字/クラフト紙/絵文字/仮綴じ/三方アンカット/ノンブル/遊び紙/継ぎ表紙/メタル装/普及判

歴史の文字 記載・活字・活版

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カラフトの満漢日文史料 ナヨロ文書

カラフトの満漢日文史料:

中見立夫(東京外大名誉教授)の「満史満学研究劄記」(『満族史研究』18号、2019.12)を読んでいたら、北大図書館所蔵の「カラフトナヨロ惣乙名文書(ヤエンコロアイヌ文書)」が2019年度に重要文化財に指定されたことが出ていた。北大図書館のサイトの説明は次の通り。

《カラフト西岸ナヨロの惣乙名(複数村落の統括者)をつとめたアイヌの氏族長の家に保管,伝来した文書群で,清朝関係文書4通と日本側作成文書9通の計13通で構成されます。前者は18世紀後半から19世紀前半にかけての満文2通(1通は官印が押捺された公文書)と漢文2通で,清朝への進貢に関する内容をもっています。日本側作成文書は,江戸時代後期(18世紀末から19世紀中葉)のもので,最上徳内らカラフト探査に携わった人物による前記満文文書ほかを披見した旨の書付,ならびに箱館奉行所等発給の惣乙名職等の任免に関する文書の2種に大別されます。18世紀から19世紀にかけてのカラフトアイヌと中国,日本との関わりを伝える極めて稀有な文書群であり,当該期のいわゆる北方世界の歴史研究上に学術的価値が高いと評価されました。》

中見教授によれば、この史料に注目した北大言語学教授の故池上二良で、本史料の写真・史料解題は池上編『ツングース満洲諸語資料訳解』(北大図書刊行会、

2002)に「カラフトのナヨロ文書の満州文」として収録されているという。

なお、満文史料の一つは、乾隆帝時代1775年のもので、清朝勢力の沿海州やカラフトへの浸透を示すもので、そのことに日本が気付くのは19世紀に入っての間宮林蔵探検によってであったという。

参考 相原秀起『追跡 間宮林蔵探検ルート』(北大出版会、2020)

【坂野潤治先生逝去にあたり思い出すこと】

 東京大学出版会でわたしが編集局に配属されたのは1980年。その時点で、坂野先生の担当者は、『明治憲法体制の確立』の編集者渡辺勲と、『教材日本憲法史』の編集者羽鳥和芳という先輩がいた。それぞれ『日本近代史』と『日本憲法史』との執筆を先生と約束していて、わたしが入り込む余地はなく、直接に先生の著作を担当したことはなかった。とはいえ、坂野先生とはいろいろと関わりがあった。

 思い出すことをあげる。

①1980年代はじめ、ある原稿を担当した際、その明治〜戦前期の史料の引用が新仮名遣いであることに不安を感じて、それが許されるのかどうか坂野先生に相談したことがある。先生は、学問的には新仮名遣いでは問題があると、明快に答えられたと同時に、史料の扱いについて編集者として気を付けるように、ときつく言われたことを思い出す。これが最初の出会いである。

② 1988 年ころ、渋谷の居酒屋「じょあん」に立ち寄ったら、坂野先生が小学館の編集者と一緒にいる場に遭遇した。当時、坂野先生には、升味準之輔先生退職記念論集にご寄稿いただく約束でありながら論文の題名をまだいただいていなかったため、社内で論集企画を提案できないでいた。それもあって、微醺を含んだのち私は、打ち合せ中の坂野・小学館編集者の間に割り込んで、題名を問い質そうとした。その無礼が先生の怒りを買ってしまった。後日、詫び状を書いて先生の研究室に届けることに至った。このことが理由ではないが、升味記念論集は実現できなかった。

③1993年の有賀弘先生の退職を記念するパーティの際、司会役の坂野先生から一言話すように突然指名された。その前に坂野先生は、退職される有賀先生は時間ができるだろうから本の執筆に精を出されることを期待すると話されていたのに、わたしは「もの書くことは罪悪であることをよく分かっていらっしゃる有賀先生であるので云々」と場違いなことを言ってしまった。しかし坂野先生はニコニコされていた。ああ、坂野先生はよく分かっている、と思った。

④東大社研を1998年に退職されたのち、坂野先生は千葉大学に移られ、同大学退職を機会に関係者が論文集『憲政の政治学』を出す企画がなされ、この企画はわたしが担当した。編集会議を学士会館で二回行ったが、その会議の費用は坂野先生が一切負担された。これは坂野・新藤宗幸・小林正弥の共返事で2006年1月に刊行された。

⑤『憲政の政治学』刊行を機に、『日本憲法史』をお願いしていた羽鳥和芳が坂野先生に攻勢をかけ、趣旨を少し変えるかたちで、これは『日本憲政史』として2008年5月に刊行された。あとがきにその経緯が書かれている。

⑥執筆依頼から50 年を経て2008年に松本三之介『吉野作造』が刊行された。『UP』誌上での書評は坂野先生以外にないと考えてお願いしたら快く引き受けていただき、これは「日本憲政史の中の吉野作造」として『UP』2008年6月に掲載された。自著『日本憲政史』とつなげて、松本『吉野作造』に異論を述べつつ、吉野民本主義は、単なる自由民主主義ではなく、社会民主主義であることを主張した論考であり、けっこう話題を読んだ。

 以上、思い出すままに。

[2020/10/25修正]

ザビエル像:茨木市立キリシタン遺物史料館

f:id:takeridon:20201014151535j:image昨日、上野の東京国立博物館の「桃山」展を見に行った。時間予約制で、混んではいないため、見たいものをゆっくり見ることができる。国宝クラスの沢山の逸品の中で、嬉しかったのは「聖フランシスコ・ザビエル像」。初めて実物をゆっくり見て、その万葉仮名も読むこともできた。
画の下部には「聖フランシスコ・ザビエル イエズス会会員」のラテン文を記し、その下の黄色地には「瑳 布落怒青周呼 山別論 廖 瑳可羅綿都 漁父環人」という万葉仮名に「IHS」の朱印と壺印が捺されている。万葉仮名文の意味は「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント 漁父環人」。「漁父環人」はローマ教皇をさすという説がある。この画はザビエルの列聖(1622)以降に日本で狩野派の絵師によって作成とされるが不明。
大阪府茨木市隠れキリシタンであった地区に現在、茨木市キリシタン遺物史料館が建てられ、かつて訪ねたことがある。茨木駅からバスと徒歩で40分ほどかかった。ザビエル像はこの史料館に隣接する東家に伝わり1919年に発見。「開けずの櫃」という箱に、『どちりなきりしたん』や『ぎやどぺかどる』の写本などと共に秘匿され、当主だけにその存在が伝えられたいう。現在は神戸市立博物館蔵。f:id:takeridon:20201014151527j:image

 

追悼 渡辺毅先生(「ぼくたちの〈日露〉戦争」の作者)

作家の渡辺毅先生が8月24日に亡くなられた。享年86.わたしにとっては宮城県古川高校の時の現代国語の先生である。樺太生れで、その体験を活かした「ぼくたちの〈日露〉戦争」で坪田譲治文学賞を受賞。同作品は集英社の『戦争と文学17巻 帝国日本と朝鮮・樺太』に収録され、先生はそれを喜ばれていた。歴史小説も書かれたが、『季刊文科セレクション』(2017)掲載の「たみ子の人形ーーあの年の夏」 はソ連侵攻前後の樺太を舞台として時代に翻弄される少年たちを主人公とした佳作である。

昨年6月16日に宮城県大崎市岩出山にお住まいの先生宅を訪れ、半世紀のご無沙汰を詫び、同地出身の作家佐左木俊郎についてお話しをうかがった。先生は佐左木俊郎生誕100年記念の『熊の出る開墾地』(英宝社、2000)に「農民を知りすぎていた佐左木俊郎の文学」を寄せている。

その訪問時に、写真を撮らせていただいた。「竹中君、その写真を遺影にするから送ってくれよ」と言われ、「写真は送りますが、遺影だなんて。まだまだお元気でいらして下さい。来年、『佐左木俊郎探偵小説選1、2』ができましたらお届けにあがりますので、またお会いできることを楽しみにしています。」と申し上げた。それから1年余、幽明界を異にしてしまった。本をお見せすることも叶わなかった。ご冥福を祈るばかりである。

南原繁研究会第9回夏期研究発表会:高橋勇一 伊藤貴雄 大庭治夫 川口雄一 山口周三

昨日午後は、南原繁研究会 第 9 回夏期研究発表会。対面とリモートとの双方で行われた。参加者は16+14人。司会の前半は宮崎文彦、後半は栩木憲一郎。5人による発表は、試論・私論的なものも含めて教えられるところが多いものだった。

《高橋勇一 「南原繁の教育観」と「田中耕太郎の教育論」》は、南原の「人間性の発展」、田中の「人格の完成」、さらにカントの「人間性の完成」に焦点をあて、それぞれの違いと共通するものを浮き彫りにした。戦後初期の教育基本法と今日の教育を考える上でも有益な示唆を与える発表だった。

《伊藤貴雄 近代日本における新カント派哲学の受容の系譜:価値並行論とその周辺》は、大正期を中心に受容された新カント派について、そもそも新カント派とは何か、主に価値論を受容した日本の特質は何か、そしてその評価が十分になされなかったのは何故か。今後の大きな展開を期待させる発表だった。

《大庭治夫「南原繁・相沢久先生と大塚久雄・松田智雄先生の精神史的考察》は、ご自身の歩みをたどり、松田智雄との公的・私的交流の紹介を交えての発表で、大塚史学全盛のある時代を強く感じさせるものであった。

《川口雄一 射水郡長時代の南原繁 再考:最新の政治史=思想史研究の観点から》は、内務省官僚としての富山県射水郡長時代の南原に焦点をあて、升味準之輔、西田彰一、若月剛史らの研究を踏まえ、南原に帰せられる事業を、内務官僚による事業としても捉え換えそうとした興味深い発表。南原伝の書き換えが期待される。

《山口周三 南原繁昭和天皇の退位問題》は、天皇制の維持を図りつつ、戦争の道義的責任をとっての昭和天皇の退位を考えていた南原繁の活動と発言を跡付けながら、昭和天皇自身、GHQ吉田茂などの錯綜した思惑の末、講和条約発効時の退位が見送られる経緯を丹念に追跡した発表。個々には知られたことながら、一望できるようにした発表内容は、強く関心を引くものだった。

 以上、討論時間が短かったのは残念だが、全体として充実した会だった。対面・リモートの会を支えた方々に感謝。