南原繁研究会第9回夏期研究発表会:高橋勇一 伊藤貴雄 大庭治夫 川口雄一 山口周三

昨日午後は、南原繁研究会 第 9 回夏期研究発表会。対面とリモートとの双方で行われた。参加者は16+14人。司会の前半は宮崎文彦、後半は栩木憲一郎。5人による発表は、試論・私論的なものも含めて教えられるところが多いものだった。

《高橋勇一 「南原繁の教育観」と「田中耕太郎の教育論」》は、南原の「人間性の発展」、田中の「人格の完成」、さらにカントの「人間性の完成」に焦点をあて、それぞれの違いと共通するものを浮き彫りにした。戦後初期の教育基本法と今日の教育を考える上でも有益な示唆を与える発表だった。

《伊藤貴雄 近代日本における新カント派哲学の受容の系譜:価値並行論とその周辺》は、大正期を中心に受容された新カント派について、そもそも新カント派とは何か、主に価値論を受容した日本の特質は何か、そしてその評価が十分になされなかったのは何故か。今後の大きな展開を期待させる発表だった。

《大庭治夫「南原繁・相沢久先生と大塚久雄・松田智雄先生の精神史的考察》は、ご自身の歩みをたどり、松田智雄との公的・私的交流の紹介を交えての発表で、大塚史学全盛のある時代を強く感じさせるものであった。

《川口雄一 射水郡長時代の南原繁 再考:最新の政治史=思想史研究の観点から》は、内務省官僚としての富山県射水郡長時代の南原に焦点をあて、升味準之輔、西田彰一、若月剛史らの研究を踏まえ、南原に帰せられる事業を、内務官僚による事業としても捉え換えそうとした興味深い発表。南原伝の書き換えが期待される。

《山口周三 南原繁昭和天皇の退位問題》は、天皇制の維持を図りつつ、戦争の道義的責任をとっての昭和天皇の退位を考えていた南原繁の活動と発言を跡付けながら、昭和天皇自身、GHQ吉田茂などの錯綜した思惑の末、講和条約発効時の退位が見送られる経緯を丹念に追跡した発表。個々には知られたことながら、一望できるようにした発表内容は、強く関心を引くものだった。

 以上、討論時間が短かったのは残念だが、全体として充実した会だった。対面・リモートの会を支えた方々に感謝。

『堺利彦伝』

堺利彦伝』(中公文庫、1978)

これは、万朝報に入るまでの前半生をまとめたものだが、素晴らしくいい。生れ故郷の豊前豊津での幼時を描いた精細な文章の郷愁あふるる情感、また、成長の過程で出会った多様な人物を簡潔に描く愛情あふるる観察。感服する。

これは第1次共産党事件で1923年に検挙されたのち、1926年に入獄する前までの間に『改造』に連載されたものを一冊にしたもの。推測するに、検挙された時、堺利彦は(共産党創立大会での「君主制廃止」についての討議が権力に知られたと思い)幸徳秋水にと同様な大逆罪が適用され自らが刑死されることを覚悟したが、治安警察法違反で裁かれ禁錮で済んだ。

つまり『堺利彦伝』の文章は、死を覚悟した「末期の眼」を通して書かれたと思われる。それが、この希有な作品を生み出した背景ではないか。(確証があるわけではないが、その文体から感じた次第。)

『日本政党史論』全7巻復刊と升味準之輔 

2010年8月13日、升味準之輔先生が亡くなられた。もう10年になる。逝去後、2011年12月、手沢本の書き込みを反映した『日本政党史論』全7巻を御厨貴先生の解説を付して復刊した。復刊に関する当時の拙文を以下に掲載する。(初出は、大学出版部協会ニュースなど)
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『日本政党史論』全7巻復刊と升味準之輔
竹中英俊

《私が1948年大学を出て政治学の勉強をするようになった・・・それから30余年はるかなりたぎりたつ八重の汐じお、私は、ゆられゆられてここに漂着した。》――これは、『日本政党史論』全7巻につづいて著した『戦後政治 1945-55』上下、『現代政治 1955年以後』上下の、後者の「あとがき」の末尾に升味準之輔が記した感慨である。刊記は「1985年1月快晴の日」、著者58歳の時。
 鮮明に記憶するのは、手書き原稿では「八重の汐じお」ではなく「八重の汐路を」となっていて、初校の校正刷の段階で先生が朱を入れられたことである。言葉としては両方ありえるが、柳田國男の話しに想を得た島崎藤村の『椰子の実』に由来するが故に「八重の汐じお」を選んだのである。『新装版 日本政党史論』に寄せた解説で、升味の独自の文体について御厨貴は「升味史論体」と命名したが、その文体が、どこから言葉の水脈(みお)を曳いているかを推測させる、ひとつのエピソードであると思う。
昨2011年は東京大学出版会設立60周年。その記念として、品切れ期間二十年であった『日本政党史論』全7巻を新装復刊した。
2010年8月13日に逝去された著者からは、どんな形でもいいから読者が読めるようにしてほしい、と希望を出されていたが、オンデマンド本ではなく本式印刷・本式製本でいくべき「格式ある本」として復刊したいと位置づけられたがため、かえってその実現は遅れ、逝去後のこととなった。
一周忌の直後の8月18日の暑い日に、今は主なき国分寺市のお宅にうかがい、奥様から著者の書き込みの入った全7巻の手沢本をお預かりした。著者による朱の訂正、朱の疑問、鉛筆の疑問、鉛筆での傍線・・・。文献の追加。句読点の位置の吟味を含め、著者が何度も何度も読み返し、正確さと分かりやすさとに努めた様子がひしひしと伝わってくる。
さて、復刊にあたって、著者の遺稿とも言うべき書き込みをどのように扱うか。著者の教え子の研究者の意見を聞きながら、著者の山のような手書き原稿に挑戦し、てんこもりのゲラの赤字の判読に苦吟した経験のある私が責任を持ってあたることとなった。
著者の書き込みの背後にある著者の意図を、著者の思いに沿って読み込み、訂正としての採用不採用を慎重に判断するという作業を行い、最終的に印刷所に渡したのは3カ月後の11月半ば。作業に取り組んでいたとき、升味さんは夢に現れ、あれこれと指示する。升味さんが私に憑依した。
同じころ、4カ月かけて400字80枚の愛情のこもった解説を書き上げられた御厨先生にお会いしたら「解説に取り組んでいる最中に私にも升味さんがのりうつってきましたよ」とおっしゃっていた。
そして、12月15日、『新装版 日本政党史論』全7巻は、八重の汐じお、読者の海に旅立った。  (以上:20120425)

戦後初期に原爆の国際法違反を訴えた弁護士 岡本尚一

広島市長を務めた平岡敬がジャーナリスト時代に著した『無援の海峡 ヒロシマの声、被爆朝鮮人の声』(影書房、1983年)を読んでいて、原爆投下を国際法違反とみなし、米国や投下の責任者を裁くことはできないか、と世に訴えた弁護士がいることを知った。岡本尚一(1891-1958)。東京国際軍事裁判で武藤章の主任弁護人を務めるなど骨のある人物だったようである。サンフランシスコ講和条約発効後のことであるが、米国やトルーマンを訴えることは、内外に反対論も多く、なんとか米国の協力者を得ることができたが、裁判費用を調達することができず、米国を訴えるには至らなかった。
だが、それとは別に、岡本は、55年4月、下田隆一ら被爆者5人を原告とした日本政府への賠償請求訴訟を起こした。これに対する63年1月の判決は「原子爆弾の投下は無防備都市に対する無差別爆撃で国際法上違法である。しかし、損害賠償請求権は国際法上も国内法上も個人にない」。原爆投下の国際法違反が認められたが、賠償請求権は退けられた。ただし判決は被爆者の救済にも触れ「原爆犠牲者には深く同情する。できれば戦争による災害を少なくし十分な救援策を講じたい。しかし、これは当裁判所の職責ではない」とし、その後の被爆者救済の道を開いたという。
(写真は広島原爆資料館 2020711)

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吉野作造と真山青果と佐左木俊郎

 昨日は、茅ヶ崎古書店で、日本近代文学研究者の岩佐壮四郎先生(関東学院大学名誉教授)と偶然にお会いし、日本の自然主義文学また作家の真山青果などについてお聞きできたのは僥倖。ちょうど、真山青果1878年生れ)仲立ちとして、吉野作造と佐左木俊郎の関係を調べていたからである。

 吉野も真山も、宮城県尋常中学校(のちの仙台第一高等学校)の同級生であった。吉野は学問の世界、真山は文学・劇の世界と、それぞれ異なる道を歩んだが、粗密はあれ、終生、交際は続き、真山は、吉野が亡くなった時、その臨終の場である小坪の湘南サナトリウムに駆けつけているし、赤松克麿編『故吉野博士を語る』(中央公論社、1934年; のち、吉野作造記念館によって1995年に復刊)に追悼文を寄せている。

 そして真山の文学の代表作「南小泉村」(1907年)について佐左木は「文学に現はれたる東北地方の特色」(仙台放送局原稿、1932年8月))の中で、そのの冒頭を共感と痛みをもって引用している。

《百姓ほどみじめなものは無い。取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯を食つて、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生涯を送つて居る。地を這ふ爬虫の一生、塵埃を嘗めて生きてゐるのにも譬ふれば譬へられる。からだは立つて歩いても、心は多く地を這つて居る。》

 「奥州の小百生」ーー佐左木俊郎は「我が農民文学」において自らを次のように語っている。

《百姓の子として百姓の家に生れ、百姓の子として百姓の家に育って来てゐるのであるから、私は私自身が既に土百姓であり農民の一分子であることを自覚してゐる。隨って私の精神は取りも直さず『農民の精神』であって、私は『農民小説』を書くために、殊に『農民の精神』を心掛ける必要はないわけである。》

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佐左木俊郎と吉野作造:「土百姓」ということ

宮城県大崎市生まれの吉野作造と佐左木俊郎との共通点のひとつは、自らを「百姓」「土百姓」の裔と称したことである。例えば、吉野は、1925年6月17日の日付を持つ自己紹介文(教え子に与えた写真に裏書きしたもの)次のように書いている(『吉野作造選集 12』35ページ所収の〔吉野先生のために妄をひらく〕)。
《吉野先生は明治十一年(一月)二十九日を以て宮城県志田郡古川町に生る。父某は綿あきんどで多少の産を興し、祖父某は駄菓子屋でやり損って家屋敷を失ふ。其の先遡ること数代、寺の過去帳を繰て各厳めしき法号を知ることを得れども、固よりどこの馬の骨やら分ったものにあらず。蓋し神武天皇以来の土百姓に相違なし。(中略)先生誤て帝国大学に職を奉ぜしことあるも、素より学徳の深く身に積む所あるに非ず。先生自ら其の足らざるを識る。而もいさぎよく世上の買ひ被りを釈いて有りの侭の作造さんに帰りり能はざる所以の者は、虚名売ることに依て僅にー家の口を糊するが為のみ。よく先生を識る者ひそかに先生の為に深く之を憫む。》
 諧謔を交えた表現であるが、「神武以来の土百姓」また「誤て帝国大学に職を奉ぜしことある」という自己表現による鏡像に注目したい。
 佐左木については「我が農民文学」から引いておく。
《百姓の子として百姓の家に生れ、百姓の子として百姓の家に育って来てゐるのであるから、私は私自身が既に土百姓であり農民の一分子であることを自覚してゐる。隨って私の精神は取りも直さず『農民の精神』であって、私は『農民小説』を書くために、殊に『農民の精神』を心掛ける必要はないわけである。》
 吉野作造と同じく「土百姓」という言葉が使われていること、「百姓」「農民」が繰り返し使われていることに注目したい。

書評を書くということ

書評にあたっては、前提として⓪本を読まないで書く芸当はしないこと、そして心掛けているのは、①本を読んでいない人でも概要が分かること、②本を読んだ人には共感できる部分があると思ってもらうこと、③著者にはそのような読み方があるのかと思わせること、④書評原稿を自分で読み直してもう一度本を読み直したいと思わせること。

なかなかこうはいかない。


書評を書くことは、私の場合、原稿を読んでいない人に向けて出版企画書を書くことに似ている。①企画の全体像を示すこと、②その企画のいい点を拡大して示すこと、③その企画の(改善可能な)欠点も示すこと、④企画の検討を著者にフィードバックすることを考えて提案すること。

これは、それなりに行ける。